於保哲外先生(ドクター部)指導

海の文化と村の文化 於保哲外先生(ドクター部)指導 全8ページ

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じゃあ、 61点から99点までの間だと思われる方、手をあげて下さい。
この辺がふつう少ないんです。さっきの0点から60点までが非常に多いんです。
さすがドクター部は違いますね。
それでは、100点と思う方。お二人。ありがとうございます。このお二人以外は全員信心していないことになるのはおわかりですか?
大聖人の仏法というのは先ほど図々しく、図太く、たくましくとありましたが、自分を100点満点と見る宗教なんですね。これは非常にわかりにくい。
信心。信じる心と書きます。何を信じるか。御本尊ですね。また、法華経でしょう。
では、法華経を信じるというのはどういうことなのかと考えてみると、自分自身が妙法の当体であると信じることですね。頭は妙、喉は法、胸は蓮、腹は華、足は経。自分のこの生命が南無妙法蓮華経なんだと、妙法の当体なんだと信じることが信心だと教学で学びましたね?
とすると、自分自身を60点ということは、南無妙法蓮華経如来を60点とつけることになってしまいます。
難しいところなので、角度を変えてお話ししてみます。
以前、やはりこころのページの「ふれあい診察室から」というコラムに「不思議法則」というのを書いたんです。
いろんな人を見ていると、真面目な人、頑張り屋の人、責任感の強い人、また、思いやりのある人、自分のことを顧みず尽くす人、こういう人が不思議に行き詰まっている。
真面目な人が、頑張っているのに不思議に開けない。
そこまで人に尽くしている人が、有り難がられるどころか、かえって迷惑がられたり、バカにされたり、ひどい場合は恨まれたりしている。そういう人を見たことありません?
真面目な人が意外と開けない。

そうかと思うと、ちゃらんぽらんで、図々しくて、要領よく立ち回っている人が、やることなすこと意外とうまくいく。うまくいくものですから、ますます人に持ち上げられて、ますます、開けていっているという現実がある。
私はいろんな人の人生に出会う場面が多いものですから、よくそういう現象を見るんです。
正直者がばかを見て、悪い奴ほどよく太ると。
「なぜなんだろう?」最初のうち分かりませんでした。私はちょうどそういうことを研究できる立場にありまして、その結果、だんだん見えてきたことを、「ふれあい診察室」に書いたんです。
最初、抵抗がありました。
これはちょっと問題あるから載せてくれるかな。カットされるかなと躊躇したのですが、あえて書きました。おそらくそういうことで悩んでいらっしゃる方があるだろうから、そういう人のためにと思って書いたんです。幸い載せてもらえました。
そうしたら、何件かやはり問い合わせがきました。
「書いてあるとおりです。私は去年まで一生懸命、折伏し、新聞啓蒙し、また、財務も頑張り、全力で戦いました。ところが、病気になって、今は生活保護を受けています。なんで、こんなに頑張っているのにこうなるのか、わからない。そうなると書いてある、そう書いてあるけれども詳しく書いてないから、よくわからない」ということで、問い合わせがきましてね。
さっそく、お返事を書いて、後で喜んでいただきました。実はこういう現象が起きる原は、その奥に一つの法則があるからなんですね。
その奥の法則を「不思議法則」と勝手に名づけたんです。
どういう法則かというと、たとえば、困っている人のため、家族のため、また、学会活動のため、広宣流布のため、世界平和のため、世の中の正義のために、戦う。だけど我慢して、自分を殺して、すなわち、自分を粗末にしてやる人は、福運を失う。したがって、自分を粗末にしているように、人からも粗末にされるようになっていくという法則なんですね。
「私さえ我慢すれば、私さえ耐えていれば、いつかこの苦労が実るときが来る。それまでの辛抱だ」。「陰徳あれば陽報あり」なんだからと。やればやるほどひどくなるんです。これでもかこれでもかというくらい、ひどい目に遭うんです。
つまり、これは陰徳にならないんです。どうしてかというと、妙法の当体を殺しているからなんです。同じ事をやっても自分自身が喜びながら、楽しみながら、自分の命を輝かしながらやることは、これは福運になっていくんです。
したがって、自分を大事にしているように、人からも大事にされていく。
ちょうど、今月のSGIグラフ(2000年5月号)の中で奥様のことを池田先生がおっしゃられています。いつも奥様は微笑まれている。「幸せだから微笑むのではない。微笑んでいくことが幸せの因になっていくんだ。幸せだから微笑む、幸せの結果として微笑むんじゃないんだ。どんな大変なときも、そこでにっこり笑っていく、その命に福運が増していくんだ。」という意味の一節がありましたが、まさに、不思議法則です。
たとえば、「折伏すれば開ける」「新聞啓蒙すれば幸せになる」また、「財務に何桁に挑戦すれば幸せになる」。こういうのを餓鬼道と言うわけです。
見返りを求めている。したがって、やっても開けなかったら恨みになってしまいます。
菩薩道というのは違うんです。大聖人は「自他共に喜ぶなり」といわれています。
有名な徳勝童子の譬えがありますね。
みんながお釈迦様に供養している様子を見て、僕も何か供養したい。
でも、何もさしあげるものがないから、土饅頭をこねてさしあげた。その功徳で阿育王に生まれ変わることができたという話しです。
ところで、もし、このとき、徳勝童子が、土饅頭をお釈迦様にさしあげれば、後で功徳がある。それを期待して土饅頭をさしあげる、という取引のような気持ちでやっているとしたら、その心には、福運はつかないでしょう。