海の文化と村の文化 於保哲外先生(ドクター部)指導 全8ページ

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はじめまして。
数年前の2月、佐渡の見える柏崎にある牧口記念館にセミナーで訪れました。
この柏崎は牧口先生がお生まれになったところですね。
牧口記念館は牧口先生の生家の近くにありました。
土曜日で午前中が診療だったものですから、午後、新幹線で柏崎に向かい、夜、セミナーをやったんです。
質問会が終わって、夜の10時半ころでした。せっかく来たのだから、牧口先生の生家を見てみたいということで、地元の男子部の人にお願いして、牧口先生がお生まれになった家に行ってみました。
今でも、敷地だけが残っています。間口五間、奥行き九間という区画整理されているんですが、そのあたりは、全部そういう区画の家が並んでいました。
すぐそばに荒浜という海岸があるのですが、生家からほんの2、30メートルぐらいのところです。荒い浜と書くように、すごく風がきついところだそうで、私が行ったときも雪は積もっていなかったのですが、下から吹き上げてくるような強い風と雪でした。
その荒浜についてどうしてお話しするかというと、牧口先生のお生まれになった地、また、時というのが非常に不思議なんですね。
この荒浜から日本海に向かって立つと佐渡は右前方に見えます。
日蓮大聖人は佐渡に流されますね。流される時、鎌倉街道をずっと北上してきまして、寺泊に着かれました。荒浜からみるとこの寺泊は右手になります。大聖人はそこで何日か風を待たれて、佐渡に渡られました。
佐渡に流されて、帰りは2年半後です。今度は柏崎の番神岬(ばんじんみさき)というところに上陸されたそうです。
この番神岬は、荒浜から見て、左手になるんです。
こうして全体を見渡すと、大聖人は荒浜を中心に半円形を描いて、佐渡に渡り、鎌倉へ帰られたんですね。その半円形のちょうど中央に、牧口先生は生まれたことになるんです。
それが、大聖人が流されてから何年後か、みなさんご存知ですか?
ちょうど600年後なんです。牧口先生のご生誕は、竜口の法難から600年後ですが、佐渡流罪と竜口の法難は同じ年ですから。
大聖人の佐渡流罪からちょうど600年後に、そして、大聖人が巡って帰られた
半円形の中央に生まれられるという不思議な時と場所の一致を感じました。
こういう不思議さの符合というのは「これで終わらないぞ」と勘が働くんです。
「何かあるぞ」ということで思索したんです。
そうしましたら、やがて見えてきました。日本の文化に2つの流れがあると言われています。
一つは「村の文化」。もう一つは「海の文化」。
この「村の文化」というのは、いわゆる、「長いものには巻かれましょう」。
日本では、「世間体を気にする」と言いますね。この世間体を気にするというときの「世間」というのは、実は村なんですね。社会ではないのです。
ですから、村を出てどこかに行きますと、「旅の恥はかき捨て」なんです。
日本国中、どこへ行っても、顔見知りの人がいないところは、もう世間ではないんです。
したがって、「旅の恥はかき捨て」なんです。
そういう意味では規則を守るのは村の中だけでいいんですね。
ですから、第二次世界大戦の時でも中国へ行ってさんざんひどいことをしている。
若い女性を暴行したり、小さい子どもを虐殺したり、すでに、村の外に出ていますから、世間にはいないわけですから中国人に対しては何やってもいいという、そういう普遍的な倫理性が働かないのが村の文化の一つの特徴なんですね。
いわゆる、日本人にとっての「パブリック=公」というのは、すなわち、村なんです。