人々の生活を見る時に、事の大小を問わず、失敗した時に、『あの人が悪いから、こんな事になった』と言って、失敗の責任が、全然自分には無くて、全部他人に有る様に言う人がいる。
例えば、ある人が事業に失敗したとする。 すると、その人は、銀行が金を貸してくれなかったのが悪かったのだとか、オジが世話してくれなかったのが悪かったのだとか、或いは悪い支配人がおったからだとか言って、自分に何の責任も無い様な言い方をする。 勿論、それは自己弁護であり、愚痴っぽい人々は、その様に言いたくもなるのであろうが、余り聞き良いものではない。 何となれば、自ら省みる力が無さ過ぎるからである。 その事業の失敗の原因は、全部彼自身にあるのである。
また、夫婦喧嘩などの場合も、『夫が悪い』『妻が悪い』として、自分には少しも責任の無い様な言い方をする場合も多い。 しかし、静かに反省してみたならば、どちらにも責任があるという事が、解かるのではなかろうか。 考えてみるに、二十歳の兄と、七つか八つの妹との間には、真剣な喧嘩などというものは、有り得ない。 夫が、妻より優れた人物であるならば、決して妻との喧嘩などは起こらないで済むであろう。 同じ様に、二十歳の姉と、七つか八つの弟との間に、本当の喧嘩など起こりえないが如く、妻たる人が、信仰によって、優れた生命を持っているのならば、決して夫との喧嘩などは、有り得ないのである。
特に酷いのは、茶碗を壊して、茶碗が悪いと言い、火鉢につまずいては、火鉢を罵り、金も持たずに買い物に行き、店で売ってくれないからと言って、先方が悪いと怒る、この様な人もいる。 笑い話の様な事ではあるが、虚心に見つめてみるならば、我々の生活の中には、こういう事が、よくあるのではあるまいか。
ここにおいて、十界互具、一念三千を説く大仏法を信ずる我々は、日常の生活の責任が、悉く自分自身にあるという事を知らなくてはならない。 貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦喧嘩をして悲哀を味わうのも、或いは火鉢につまずいて、怪我をするのも、結局、それは皆自己自身の生活である。 即ち、自己自身の生命現象の発露である。 かく考えるならば、一切の人生生活は、自己の生命の変化である。 故に、より良く変化して、絶えず幸福を掴んでいくという事が大事ではないか。
されば、自己自身に生きよ……いや、自己自身に生きる以外にないのだ、という事を知らなければならない。 あの人が、こうして呉れれば良いのだとか、この世の中がこうであれば幸せなのだと言って、他人に生き、対境に生きるという事は間違いではないか。
しかし、人間の力というものは弱いものである。 自己自身に生きていると、如何に観念的に、自己自身、自ら生きていると力んでみても、それで、幸福であると言えない場合が多い。 そこで、自分自身の生命が、最も強く、最も輝かしく、最も幸福である為には、十界互具、一念三千の仏法に生きる以外には無いと、吾人は信ずるものである。
これこそ、七百年前に、日蓮大聖人が、大宇宙に対して呼号なされた大哲理である。 我等を、幼稚なる者と呼んで、一念三千の珠を授けて、幸福境涯を獲得せしめると仰せられたのは、この故で、その一念三千の珠とは、弘安二年十月十二日御図顕の大御本尊であらせられる。 されば、末代幼稚の輩は、この大御本尊を信じ参らせて、強く立派に、自己自身に生きようではないか。