しかも、わがままでワンマンの人が多い。
こう考えると、今の世の中、いわゆる、日本文化から見て悪い人が元気なんです。
いい人はあまり元気がない。病気になりがちなんです。
結局、これを仏法という眼で見ますと、真面目で自分を殺すというのは、妙法の当体を殺しているわけですから、これは謗法になるんですね。
妙法の当体である自分自身を輝かしている人は、実は、考えたら、図々しい人なんですね。
そうしてみると、たとえば良い例が某党の代議士。
選挙の当選者インタビューなんかで、テレビを見ていると、なんと尊大と言うか、図々しい人が、大きな顔をして出ています。そういう人は元気です。
勢いがあるんです。そして不思議に、福運があるんです。
一方、真面目な人は福運がない。よく池田先生が、「ずうずうしく、図太く、たくましくいこう」と、「口八丁、手八丁でいくんだ」とおっしゃいますが、それが正しいんですね。
だから、今の世の中、「悪がのさばっている」と言いますが、悪がのさばっていることももちろん問題なんですが、「いい人が自分を殺す」という、間違ったことをしていることのほうが見えにくいだけに、もっと問題なんですね。
だから、これからは、真面目な人が、善い人が、思いやりのある人が、心優しい人が、もっともっと言いたいことをずけずけ言っていく。正義を主張していく。
勢いを増していく。そうなっていくと、今のさばっている、自分さえよければいいという人達が、肩身が狭くなっていくでしょう。そうなってこそ、牧口先生のおっしゃる、「人道的競争の時代」ではないかと私は思うんです。
実はこの日本文化、真面目というのが、先ほどから言っている「村の文化」なんです。
出すぎた真似をすると村八分になるんです。白黒はっきりさせる人は嫌われるんです。
村の文化の一番良い例が、私は、村山内閣だったんではないかと思うんです。
あの村山内閣の時に、阪神大震災が起きました。
その時の政府の対応にみんなが腹を立てました。
一番困っている人を何で救わないんだと。それに対して政府は言う。
「従来の、慣例通りにしかできないので仕方がありません」「全体としての救済はできますが、個々人としての救済はできません」。
本当に無慈悲な政府ということを露にしましたが、実は、村の文化というのは、そういう無慈悲な文化でもあるんです。人間よりも組織を優先するんです。
ですから、人間を抑圧していくという文化ですね。
こういう文化が日本文化の大勢を成しているんですね。
一方、もう一つの日本文化がある。これを「海の文化」というんです。野茂投手がアメリカの大リーグに行きました。
行く時にちょうど、アメリカでは大リ-グがストライキをしていました。
行ったところでどうなるか分からないという情勢でした。また、大リーグに行っても、野茂が通用するのかと非常に危ぶまれた。多くの日本人やマスコミは、こぞって叩きましたね。「なんで行くんだ」と反対しました。