村からどう見られるか。
精神医学でも対人恐怖症というのがありますが、この対人恐怖症なんかでも、顔見知りが一番問題になります。見知らぬ人はあまり気にならない。
つまり、世間ではないわけです。顔見知りでない人は世間の人ではないですから、恐怖の対象にならないんですね。
日本人の心性の中にこの村意識というのは、現代でも強烈に根づいております。
学校や会社も村ですし、仲間内も村になるわけです。
我々、日本人はこの村から排除されることを強烈に怖がります。
いわゆる仲間外れになることが怖い訳ですが、それはこの「村文化」に生きているからなんです。この仲間外れを怖がる傾向は現代の青少年に強く見られる特徴ですから、
現代の若者も村文化の中に生きていることになります。
我が国の子供のいじめの問題も淵源はこんなところにあるという印象を持っています。
私の所には精神科の患者さんや、喘息・アレルギー性鼻炎・アトピー性皮膚炎とかのアレルギー性疾患の患者さんが主に来られるんですが、今までに一万人以上の患者さんが来られました。
その患者さんを見ていつも思うんです。みんな、真面目なんです。世間をみると、真面目な人も不真面目な人もいますよね。ところが、私の所に来る患者さんはほとんど不真面目な人はいないですね。みなさん真面目なんです。
一万人くらい来れば、不真面目な方がいてもいいと思うんですが、ほとんどいらっしゃらない。
どうして、真面目な人が病気になるんだろうと考えざるを得なくなってきますね。
そのあたりのことを、昨年、聖教新聞の心のページ「ふれあい診察室から」というコラムに、「遊びとまじめ」という題で書いたんです。書くに当たって、まず、原点に戻ろうと思いまして、広辞苑を開いて、「真面目」を調べてみました。
なんとですね、「真心のこもった顔つき、態度」と書いてあります。
ちょっとふつうのイメージと違いません?
そのまま書いたら、聖教新聞の担当の方が違和感を懐かれたんですね。
もう一度、広辞苑をひきなおしたそうです。
すると、私が調べた広辞苑は第3版で古い版だったんですが、今、第5版で新しくなっていて、しかも意味が変わっているんです。「真面目」の意味がここ10年、20年で変わっているんです。こういうことは気がつかないうちに、変わっているものなんですね。
我々が日常的に使っている真面目というのを考えてみると、「周りに合わせる。世間の常識に忠実に随って生きる。日本文化に随って生きる」。こういうのを真面目と考えると思うんです。
しかし、この日本文化というのがくせ者ですね。私が見るところ病気の原因になる文化なんです。
すなわち、謙虚、ひかえめ、謙譲の美徳、奥ゆかしく、男は黙って、女は一歩退いて、人に気を使って、人に合わせて、自分が我慢して、でしゃばってはいけない、いい気になってはいけない、調子に乗ってはいけない、天狗になってはいけない等々、とにかく、一言で言うと「自分を殺せ」と言うのが日本文化なんです。
だから、真面目な人ほど自分を殺していますね。したがって、真面目な人は個性がないですね。しかも、消極的です。世の中、一つの組織を動かす人や、会社を引っ張っているような人は、だいたい、ずうずうしい人ですね。
そして、図太い人ですよ。それから、常識にとらわれない人が多いですね。