於保哲外先生(ドクター部)指導

海の文化と村の文化 於保哲外先生(ドクター部)指導 全8ページ

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すなわち、一番落ち込んでいる自分、一番惨めな境遇に苦しんでいる自分、また、一番不安がっている自分をこそ大きな心で包んであげる。
温かい目で見守ってあげる。それが「悲しみを慈しむ心」すなわち「慈悲」であると。
最悪の時に、自分をその慈悲の心で包む。そこに魂の勝利の姿がある。
その生命で自分を包める人は、もう悲しみは単なる悲しみではない。
慈悲の心に包まれたその悲しみは、そのままで、勇気に転ずるであろう。
また、絶望は希望へと転じていくだろう。その生き方の中に本当の意味での人間の魂の勝利の生き方がある。
そういう心で自分を包める人は、また、絶望に苦しんでいる人を我が事のように、温かい心で包んであげられるでしょう。
でも落ち込んだ自分を、こんな自分は情けないと嫌う人は、そこから立ち直った後で、同じように落ち込んだ人を見ると「かわいそうに」とは思うでしょうが、心の奥底では、「弱い人だな、自分に負けてだらしない人だな」と見るでしょう。
自分を見る目が他の人を見る目なんです。したがって、最悪の自分を慈悲の心で「大好き!」と大きく包みながら、「偉大なんだ」と本当に尊敬できる人は、また、他の人をも尊敬できていくんです。
「御本尊」と言いますが、「本尊」というのは「根本尊敬(こんぽんそんぎょう)」を略した言い方ですね。この根本の「本」と、尊敬の「尊」で「本尊」ですね。
これは池田先生の指導ですが、「何を根本として尊敬するのか。それは自身の生命である」。
自分の生命を根本として尊敬する。

根本ですから、何かができるから尊敬するのでもなければ、大失敗をしたから尊敬できないのでもないのです。どんな境遇にあろうとも自身の生命の尊敬から出発する。これが御本尊を持(たも)つということです。
これが大聖人の仏法なんですね。この中で自分のことを100点と思う方?(笑い)
ありがとうございます。素直な方が多いですね。
まだ、手があがらない方がいるようですから、最後に一つだけ。
御書の中に「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」(御書P1337)。
これは有名な生死一大事血脈抄の一番重要な御文ですね。
この中で「久遠実成の釈尊」とは大聖人のことですね。「皆成仏道の法華経」とは御本尊。「我等衆生」というのは自分自身。したがって、大聖人と御本尊と自分自身がまったく差別なしと解りて(信じて)、南無妙法蓮華経と唱え奉るところに生死一大事の血脈があるのです。
したがって、自分のことを60点と見る人は、御本尊のことも60点、大聖人も60点ということになりますね。まったく差別無しですから。こういうのを謗法って言いません?
いや、大聖人や御本尊は100点だけど、私は60点だと思う人は、「全く差別無し」と信じません、ということになりますから、こういうのを不信というでしょ。
したがって、自分のことを100点と信じない人は、謗法不信の人になるんですね。
この御文の後ろに「謗法不信の者は「即断一切世間仏種」とて仏に成るべき種子を断絶するが故に生死一大事の血脈之無きなり」(御書P1337)。
「謗法不信の者は」、自分を100点満点と信じられない人は、「即断一切世間仏種」。すなわち、一切世間の仏に成る種を断つ人だ。「法華不信の者は「其人命終入阿鼻獄」と説かれたれば定めて獄卒迎えに来つて手をや取り候はんずらん」(御書P1337)。
したがって、臨終のときには、地獄の獄卒が手を取り迎えに来るでしょう。
「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を「是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣」と説かれて候、悦ばしい哉一仏二仏に非ず百仏二百仏に非ず千仏まで来迎し手を取り給はん事歓喜の感涙押え難し」(御書P1337)。
自分を100点満点の仏なんだと信じて喜び、大安心の境地で生きる人は千仏までも来迎し、臨終を支えてくれる。
「歓喜の感涙押え難し」。
獄卒が迎えに来る方か、千仏が迎えに来る方か、どちらがいいですか。
ここで手が上げられない人はもう二度と上げられないでしょうから、覚悟してください。
では最後に聞きたいと思います。半分脅迫ですけどね、
私が脅迫しているんじゃないですよ。大聖人の仰せですからね。
「自分自身のことを100点満点だと思う方?」(爆笑)。ありがとうございました。