そういう意味では、非常に自立している。また、活動的で進歩的です。そして、開放的なんです。
ところが、この大聖人の仏法が、大聖人亡き後、お山の宗教になるんですね。
村化していくんです。村の文化に毒されていくんです。それが行き着いた先が「法主絶対」。したがって我々が行っても「お目通り叶わぬ身」と。そういう発想になっていくんです。
この階級制が強いというのも「村の文化」の特徴です。昔の村というのは、小作人だと、庄屋さんの土間にはいつくばらなければだめだったんです。
門を建っていい家といけない家があるんですね。服装までも身分で決まってしまう。
一方、「海の文化」というのは、だいたい、貧しい家が多くて、差があまりなかったんですね。その「海の文化」の大聖人の仏法も、「村の文化」化したんです。
そして、700年経ちました。牧口先生は荒浜の漁師町の生まれなんですね。
「海の文化」の中で育っているんです。ですから、牧口先生は「村の文化」の発想ではないですね。
戸田先生も北海道の漁村の厚田で育ちました。生まれは石川県の、やはり漁師町です。先祖は江戸時代、日本海航路で活躍した北前船の船頭だったそうです。まさに海の男の系譜なんですね。
池田先生も海苔屋の息子さんです。こうして見ると、創価学会の歴代会長は全部「海の文化」なんです。大聖人と非常にストレートにつながっているんです。
その間に村化した部分をのぞいて。
非常に興味深いのは、創価大学の宮田教授が、私の先輩ですが、牧口先生の研究をされております。牧口先生が、もし宗門と直接出会ったらおそらく入信しなかっただろうと書いておられました。
牧口先生は、創価教育学の土台になりうる宗教を求めていらっしゃった。
自立的かつ論理的である宗教です。創価教育というのは、生徒を温かい心で見る、そして人間の可能性を開く、そういう教育ですからその土台となる宗教を探されたんです。
そして、日蓮正宗に出会うんです。当時、堀米尊師が中野の歓喜寮というお寺ではない、出張所をつくられていたんです。
この堀米尊師は、早稲田大学で哲学を勉強されていて、これからの仏教は、寺仏教ではもう何の貢献もできない。だから、在家の人たちが活躍できる在家仏教、そういう宗教運動を起こしていかなければならないという危機意識で歓喜寮を作られたんです。
その堀米尊師と牧口先生が出会ったものですから、いわゆる在家仏教運動と、牧口先生の創価教育学とが丁度合致したわけです。そこから、人間主義の宗教運動が始まったんです。
しかし、宗門側から見れば、これは、今までの宗門の伝統にはない運動です。
したがって、宗門から見れば、最初から、創価学会は「生意気だ」「信徒が大きな顔をするな」というのがあったわけです。
これはまさに「村の文化」と「海の文化」の対立と言っても良いでしょう。
狸祭り事件とか今までにいろいろありましたが、全部、淵源はこの元々の文化の違いにあるんですね。
いよいよ、そのことが明確になったのが、現在の宗門問題が起こってからの、今の創価学会と宗門の関係になっているわけなんです。そういう意味では、起こるべくして起こった事と私は思っております。
実は、今まで話してきたことはこれから話したいことの前提なんです。非常に長い前提で申し訳ないんですが、ここで、仏教の原点に戻って自分自身に目を向けてみましょう。
今の自分に点数をつけるとすると、100点満点で何点くらいつけるでしょうかね。
ちょっと、考えてみて下さい。
0点から60点の間くらいに大体自分は入るなと思われる方、手をあげて下さい。
ありがとうございます。