池田先生ご指導

魔とは観念ではない。生命自体の一実相であり、さまざまな現象となってあらわれてくるものである。幸福への反作用である以上、魔はあらゆる姿で仏道を求める者を妨害しようとするのである。

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潮の干満、月の出と月の入り、あるいは夏と秋、冬と春のような、自然の境目にも変調がある。信心修行の上においても、凡夫が仏になる時には、かならず三障四魔の嵐が出てくる。したがって、三障四魔が競うのをもって、己れの宿命転換をして成仏を遂げる時であると知るがゆえに、賢者は喜んで、この難と戦うのである。しかし、愚者はそれを知らず、三障四魔の表面的な恐ろしさに驚いて退転してしまうのである。


生命それ自体が幸福に向かって前進しているとき、これを妨げる働きが本念的にあらわれてくる。これは変わらぬ道理である。この働きを魔と名づけるのである。
魔とは観念ではない。生命自体の一実相であり、さまざまな現象となってあらわれてくるものである。幸福への反作用である以上、魔はあらゆる姿で仏道を求める者を妨害しようとするのである。


なかには味方のような顔をした魔もある。むしろ、魔はその姿を隠して人を欺くのが本領であるともいえる。
友人、先輩が真心から忠告すると見せかけて信心を妨げるかもしれない。妻子・父母の肉親の愛情という武器で攻めてくることも多い。


人はこれらの魔にたぶらかされ、仏道修行を成就せずして、悔い多き人生に終始してきたのであった。これらの魔を根底から打ち破るものはなにか。それはしょせん信心の二字以外にありえない。強盛な信心の一念によってみがきぬかれた鏡の前には、魔は正体を表してしまうのである。とぎすまされた信の利剣で一切の魔を断破していかねばならない。