「午前は、理論めいた話であったから、今度は、同志と二人きりで話し合っているような気持ちで、お話ししましょう。
今、私は、広宣流布は当然のことであるから、やっかいな会長という地位にあることを少しも悔いません。私の望むことは、どうか、皆さんに早く幸福になってもらいたいことです。まず、一家が繁栄し、健康であってほしい。『先生、私はこんなに幸せになった』と、言われる時の嬉しさ、反対に、『まだ苦しい』と言われる時は、胸をえぐられるような気がします。
ある人が、商売をほったらかして、折伏ばかり飛び回っていると聞いた時、私はまったく辛い思いをしました。商売も法華経です。生活をよくするための信仰です。これを逆にする人が、どうして私の指導を受けているといえましょう。ここを取り違えずに、信心中心に考えていくことですよ。
今日も、皆さん方から、さまざまな功徳の体験を聞きましたが、私の受けた功徳から見れば、まだまだ小さなものです。どうしたら、本当の功徳を受けられるかを、おはなししましょう」
「ここに三つの畑があるとします。第一の畑には何も蒔かず、第二の畑には菜の種を蒔き、第三の畑には宝のなる木の種を、一粒蒔いたとします。第一の畑には子供が入ったとしても、誰も叱らない。第二の畑に入ったとしても、真剣には叱らない。ところが、第三の畑に入ったとしたら、それこそ大声で叱るでしょう。
信心とは、御本尊を頂くということで、仏になる種を植えたことであります。つまり、心田に仏になる種を植えるんです。目には見えないが、こうなると諸天善神は、夜となく昼となく、懸命に守っています。
種が芽を出し、やがて育った木は枝を出し、葉が茂り、花が咲き、実がなっていきましょう。それも、わずかのうちにです。こうなると畑の値段は、いやでもぐんぐん高くなる。これを成仏の境涯といいますが、そこまでいかずとも、葉が茂るころには、人生において本当の幸福生活ができるんです。
あなた方は、まだ、芽が出たか、出ぬかの時なんです。芽が虫に食われては、なんにもならない。草ぼうぼうにしておいては、芽は腐ってしまう。
そこで、心田にある雑草を取らなければならない。それが折伏です。朝夕の題目は、畑に肥やしをやることです。
功徳のはっきりしない人は、雑草を抜き取らぬからです。あなた方は、心田に種を植えたのですから、絶えず肥やしをやって、雑草を抜き取り、幸せになりなさい。
本当によくなるのは十五年だな。仏法は道理だもの・・・・大樹になるには当然なことだ。七年ぐらいから、だんだん、よくなることが見えてくるでしょう。菜っ葉だって、種を蒔いてから芽を出すまでに、五日や一週間はかかる。焦らず待っていなさい。十五年目の実証を確信して、腰をすえて、しっかり信心に励むことです」