現実に行動した分だけが、大いなる功徳と香っていくのである。
すなわち、八万聖教という「法」も諸仏菩薩という「人」も、所詮は、妙法への信心の「心」におさまっている。広宣流布のために祈り、語り、動いていく「一念」にこそ、仏法の全体は含まれ、生き生きと躍動している。絶対にそれ以外のところにあると思ってはならない。
戦っている人は元気である。福運もつく。要領を使って戦いを避ける人には表情もどことなく陰険で、目に輝きがない。号令をかけるだけで、自分は苦労を避けてる幹部も同じである。生命は沈滞し、濁り、やがて清浄な学会にいられなくなってしまう。
仮にどうしても勤行できないときがあったとしても、それをいたずらに気にかける必要もない。信心の心があれば、それだけで福運は消えない。
大事なのは生涯にわたる粘り強い仏道修行である。
信心の力用次第によってやがて厳然とかなえられていくことを、強く確信していきたい。
その信力・行力に燃えたつ人が、地域に一人、また一人と増えていく時、目には見えなくとも、偉大な仏力・法力の働きを引き出し、大勢の人々をも守りゆくことができる。