豊中市は公共交通機関が充実する交通至便の地。
池田市はインスタントラーメン発祥の地であり、全国で初めて分割払いによる住宅分譲が行われた「事始めのまち」である。
箕面市は子育て世代の流入数が大阪トップを誇る。
豊能町は、豊かな自然と閑静な住宅街が広がる。
能勢町は「日本書紀」に登場するなど、古くからの歴史が息づく。
多彩な魅力に富む豊中総県を使命の天地と定め、“負けたらあかん”の「関西魂」を燃やして、多くの青年が広布に駆けている。
豊中市の関西戸田記念講堂の前を走る“ロマンチック街道”。飲食店や、しゃれた洋菓子店などが集まる街道沿いに、朱色の瓦がひときわ目を引く店がある。どら焼きが人気の「和菓子処 喜楽」だ。
店主の堀端祐助さん(男子地区リーダー)は、パティシエに憧れ、製菓の専門学校に入学。だが、授業で試食した和菓子のおいしさに衝撃を受け、この道へ進むことを決意。卒業後、京都で修業を積み、2014年(平成26年)末、店をオープンした。
最初は順調だったが、客足は伸びず、売り上げが落ち込む時期もあった。
そんな頃、牙城会大学校(当時)に入校。さまざまな職場で、悩みを抱えながらも真剣に進む同志の姿に、勇気をもらった。“今できることをやろう”と、試作品の考案や店のホームページの更新に取り組み、次第に評判が広がっていった。
妻の友里さんと結婚し、“いよいよこれから”という昨年4月、顔面神経まひで入院する事態に。懸命に祈り、男子部はじめ地域の同志の励ましに支えられ、手術は無事成功。すぐに店を再開することができ、対話を重ねてきた友里さんを入会に導くこともできた。
今、和菓子作りが体験できるワークショップも開催し、近隣住民から好評を博している。
「日本の伝統文化である和菓子の魅力を、地域の人々に伝えたい」――堀端さんの挑戦は続く。
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小畑宏子さん(圏女子部長)は、JR西日本で切符の発券業務に従事する。深夜勤務もある不規則な職場ながら、女子部の活動や白蓮グループの活動にも率先する。
地元の大学を卒業後、JRに入社。最初は仕事で失敗することが多く、“向いていないのかも”と悩んだことも。“なくてはならない人材に”と祈り、勉強も重ねた。
多忙な中、華陽姉妹の訪問・激励に歩いた。仏法対話にも挑み、友人に弘教を実らせた。
努力を重ね、着実に仕事の技術は向上していった。3年前には、切符発券の「スピード」「正確さ」を競う大阪の大会で優勝を果たした。
今年4月、ターミナル駅に異動した小畑さん。新たな職場では、多くの外国人も窓口に訪れるため、語学の研さんにも取り組んでいる。
「信心で自身の心を磨き、常に誠実な接客をしていきます」と笑顔で語った。
――先月18日に発生した大阪北部地震、そして今月の西日本の豪雨で、豊中総県内にも被害が出た。
だが、豊中青年部の友は負けない。不屈の「関西魂」を発揮し、スクラム固く前進を続けていく。
●常勝の新時代へいざや前進
豊中総県は草創期から今日に至るまで、池田先生が幾度も広布の指揮を執ってきた師弟有縁の地である。
「常勝の母」と慕われた故・矢追久子さんの自宅が池田方面にあり、1956年(昭和31年)の「大阪の戦い」の折など、先生は矢追宅を度々訪れ、関西の同志を激励している。
66年(同41年)に開館した豊中会館(後の関西牧口記念館、現・豊中平和会館)には40回訪問。豊中の友にとって忘れ得ぬ励ましを送った。
「世界一仲の良い豊中に」
「豊中という名はいい名前だ。豊かな中道の大地だ。豊中は世界の、日本の焦点になる」
「五月三日」の揮毫を認め(80年〈同55年〉5月3日)、広布の峻厳な魂をとどめたのも同会館である。
76年(同51年)4月2日には、関西戸田記念講堂が落成した。
ここで、5・5「創価学会後継者の日」の淵源となった集い(同年5月5日)が開催された。
先生の会長辞任後、師弟共戦を誓い、関西が反転攻勢の火ぶたを切った第3回関西総会(81年〈同56年〉11月22日)も行われた。
数々の学会の重要行事が開かれてきた同講堂は全国、全世界の広布の電源地となってきた。
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〽今再びの 陣列に
君と我とは 久遠より
同志の熱き歌声が、関西戸田記念講堂に轟く。
78年(同53年)7月17日、先生が出席した記念の幹部会で、関西の歌「常勝の空」が発表された。友の胸に、師と駆け抜けた“あの日、あの時”が鮮やかによみがえる。この日、関西の新たな前進が始まった。
幹部会に参加した上野哲男さん(副圏長)は、64年(同39年)の入会。同講堂が完成してから、さまざまな会合の設営に携わった。
94年(平成6年)10月の関西栄光総会では、同志と共に“箕面の紅葉”をあしらった設営物などを制作。先生ご夫妻は友の労をたたえ、力作の前で記念のカメラに納まった。
上野さんは同講堂の「守る会」を32年。また、自宅マンションの理事会役員を務めるなど、近隣から大きな信頼が寄せられる。
妻のフジ子さん(支部副婦人部長)の心臓病も、信心で乗り越え、日々、友の励ましに歩く。「学会、池田先生あってこその私の人生です。一歩も引かず、生涯、戦い抜きます」
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80年(昭和55年)4月20日、西中俊栄さん(県婦人部主事)は、豊中平和会館近くの山口信治さん(故人)宅にいた。友と談笑していると、突然、声が聞こえた。
「ごめんやす」
声の主は、池田先生だった。先生は縁側に腰掛け、その周りを囲むように友の輪ができた。
第5次訪中を控えた先生は、「これから中国へ行くんだ」と語り、“現地の皆さんに喜んでもらうために”と準備してきた手品を披露。西中さんが「先生、もういっぺんお願いします」と言うと、「もう一回だけだよ」と先生。皆に笑顔の花が咲いた。
会長辞任から1年になろうとしていた。だが、先生と関西の友との間には、何の夾雑物もなかった。
西中さんは56年(同31年)3月、先生が出席した座談会に参加し、入会。同年5月の「1万1111世帯」の不滅の金字塔が打ち立てられた時、西中さんも弘教を実らせた。
60年(同35年)、卓次さん(県主事)と結婚。その後、先生と懇談する機会があった。
先生は西中さんに語った。「よく頑張ってきたね。よく付いてきたね」「これからも見守っているよ」
師匠の慈愛を胸に、2人の子育てをしながら、広布拡大に奔走した。
長男・勇さん、次男・伸城さんも現在、支部長として奮闘。夫婦共に報恩の人生を力強く進み続ける。
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98年(平成10年)5月26日、池田先生は豊中平和会館を訪問。会館を支える友に心からの感謝を伝えた。
関西戸田記念講堂へ出発する間際、先生は牙城会の任務に就いていた古藤英雄さん(副圏長)に声を掛け、握手を交わした。
さらに、妻の貴子さん(婦人部副本部長)や2人の子どもへの励ましの言葉を託した。「古藤君、よろしく頼むよ」と手を上げ、車中の人となった。
「先生の柔らかな手のぬくもりを忘れることはできません。あの日が、わが家の原点です」
壮年部に進出してからもブロック長(現・常勝長)、地区部長、支部長、本部長と、常に広布の最前線を奔走してきた。豊中平和会館のすぐ近くに自宅を購入し、広布の会場として提供している。
師との出会いから20年となる今年、報恩の思いを胸に、夫婦で2世帯の弘教を実らせている。古藤さんは力を込めた。「先生のおかげで、本当に幸せな境涯になりました。後継者を育て、この地域を、福運あふれる楽土にしていきます」
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今年2月、関西戸田記念講堂で開催された本部幹部会・関西総会。池田先生はメッセージで呼び掛けた。
「さあ、一人ももれなく、常勝栄光の未来へ、『いざや前進 恐れなく』」
間もなく「常勝の空」発表40周年の「7・17」。
何があっても、私たちは池田先生と共に!――それが豊中と関西の友に脈打つ常勝の魂である。