


信心とは「疑わざること」である。また「真実を訴える」義がある。この両方があって、まことの信心といえるのである。

過去の宿命を論ずるよりも、絶大なる功力のある御本尊へ勇んで唱題しながら生き抜いていったほうが、何百倍もの価値があると知らなければならない。

「悪口せらるることによって、われわれの身体の罪障が消えて、幸福生活へと爆進できるからである。」と。

一念の生命のなかに、常寂光の都もあれば、幸不幸のすべても含まれている。

しかし、苦しみは苦しみの人生のまま、悲しみは悲しみの人生のまま、題目を唱え抜き、妙法に照らされていけば、福徳に満ちた自由自在の境涯を開いていける。

精神的だけでもなく、物質的だけでもなく、生命それじたいの幸福は、自分白身の信心の一念によって決まっていくのである。

唱題できるという事がどれほど幸せなことだろう。無明の酔いから醒めるが如く、沈んでいる境涯もみるみる蘇ってハツラツとした命に変化する。あまりにも不思議な「悩みの万能薬」である。

生命は、信じても信じなくても、永遠であり、それは信心を深めていくなかで実感していくにちがいない。
