


ベートーヴエンが耳が聴こえなくても、仏法を知らなくても、それだけの境涯があった。いわんや、妙法を行じる人が、己心の宇宙を大きく広げられないわけがない。

「信心、信心」と口で言うことはたやすい、しかし、その実践はむずかしい。

人生は信の上に立つといってよい。この基礎がぐらつくならば、不安この上ないものとなる。したがって、問題は信ずるか信じないかの問題ではなくて、何を信ずるべきかである

そのなかにあって、御本尊に唱題しゆくとき、意識するとしないとにかかわらず、もったいなくも日蓮大聖人の御本仏の御生命と、われわれの生命の「我」が感応していけるのである。

創価学会においては、「身分としての聖職者」は存在しない。教義の研鑽はもちろん、布教も儀式の執行も、社会に根差した在家者である会員が一切を担っている。

御本尊を信じ、南無しゆく心の探さこそが、幸、不幸の岐路を決める要諦となることを知っていただきたい。

妙法は、一切の難も、一切の労苦も、一切の歴史も、すべて限りなき法楽へと転じゆく法則である。

簡単にいえば、御本尊への唱題によって、われわれの生命に具わった仏界が内より薫発し、全宇宙に存在する仏界、菩薩界ならびに天界に連動し波動するため、宇宙の三世十方に実在する仏・菩薩ならびにあらゆる諸天善神が
