本日の御書

本日の御書 祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候(道妙禅門御書p1242)

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【御書本文】
祈祷に於ては顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の祈祷有りと雖も只肝要は此の経の信心を致し給い候はば現当の所願満足有る可く候(道妙禅門御書p1242)

【通解】
祈りには、顕祈顕応・顕祈冥応・冥祈冥応・冥祈顕応の4種があるが、ただ肝心なことは、この法華経の信心をされるのなら、現在および未来の所願が満足されるという事である。

【池田先生の御指導から】
この御文は、私達が大御本尊に唱題・祈願するとき、祈りの強弱、宿命の浅深(せんじん)によって、その祈りと功徳の現われ方が四つの場合に分けられることを示されたのです。
まず第一に「顕祈顕応(けんきけんのう)」である。
顕祈とは、あきらかな祈り、現実的・具体的な目的を意識した祈り、すなわち、なにか事があったときに、特に強い願いを込めて、大御本尊に祈っていくことであります。たとえば、子供が病気になった。だから、きのうまで退転していたが、きょうからは、一生懸命拝もう(笑い)――これは顕祈です。また「顕応」――あきらかに応ずるとは、その顕祈に応じて、即座に功徳が現れてくることであり、そういう一つの方程式、原理です。
第二に「顕祈冥応(けんきみょうおう)」であります。
明確な祈りに対して、知らずしらずのうちに功徳をうけていく。冥応は顕応に対する言葉で、これは真剣に唱題に励んだとき、現証は即座に現れないが、あたかも草木がしぜんに育つがごとく、潮の満つるがごとく、次第次第に祈りがかなってくることであります。これは皆さん方も体験したことがあると思います。真剣に祈っているにもかかわらず、功徳がすぐに出ない場合は、この「顕祈冥応」という原理によるのです。
第三に「冥祈冥応(みょうきみょうおう)」である。
冥祈とは、顕祈に対する言葉で、日々たんたんと水の流れるごとく、大御本尊に唱題を重ねていくとき、功徳は見えないが、やがてその人の願い通りの生活になっていくということをいうのであります。これも十年、十五年信心した人は、振り返ってみて、よくわかる方程式です。
第四には「冥祈顕応(みょうきけんのう)」です。
これは日々に、たゆまず信心を貫くとき、その信心、冥祈によって、いざというときに厳然と功徳が現れてくることをいうのであります。たいした祈りのない信心であっても、水の流れるがごとく純粋に励んでおれば、いざという場合に、厳然と守られる、驚くほど大功徳が湧現(ゆげん)するということであります。
この御書は、以上のごとく祈りと功徳のさまざまな対応の仕方を説いているのであります。
その次の一節には「只肝要は 此の経の信心を致し給い候はば 現当の所願満足 有る可く候」としたためられています。「只肝要」とは根本、「此の経」とは大御本尊、「現当」とは現在ならびに未来を指します。
「現当の所願満足有る可く候」との御金言のごとく、誰人たりとも、大御本尊に対し、ひたぶるな信心を貫いていくならば、先の四つの方程式によって、必ず所願満足になってくる。せんずるところは、どんな境涯でも、どんな祈りでもかなわないわけは絶対にないというご断定のお言葉です。