人のためにおこなっているようにみえるがーーありがたいことに、じつは、円融円満の大法のゆえに、いっさいが人のためであるとともに、わが身の功徳善根にかえり、わが身を荘厳しゆくことを忘れてはならない。

折伏を行ずる人は如来の使い
「我もいたし人をも教化候へ」ーー日蓮大聖人の仏法における信心は、この御文に仰せのとおり、自行化他にわたる行躯即信心でなければ、まことの信心とはいえない。
信心の眼から照射するならば、折伏・弘教といい、悩める友への指導、激励といい、すべてが人のためにおこなっているようにみえるがーーありがたいことに、じつは、円融円満の大法のゆえに、いっさいが人のためであるとともに、わが身の功徳善根にかえり、わが身を荘厳しゆくことを忘れてはならない。
ゆえに、信心の実践には、微塵たりともむだがない。とともに、絶対に犠牲はないのである。
ともあれ、折伏行を実践しゆく人は、経典に照らし、御書に照らし、まことに誇り高き、尊き〝如来の使い″なのである。

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