池田先生ご指導

善根とは、生命にそなわった福運であり、われわれが今日まで信心に励み、陰に広宣流布のために戦ってきたことは、なにものにもかえがたい大善根である。

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善根とは、生命にそなわった福運であり、われわれが今日まで信心に励み、陰に広宣流布のために戦ってきたことは、なにものにもかえがたい大善根である。末法今時において、善根を積む道は妙法の唱題と広宣流布の実践しかありえない。


末法の功徳は冥益だ。毎日、毎日、見ていると見えない。しかし、七年、十年、十五年、二十年と信心を重ねていくならば「ああ、こんなにも大功徳をうけたか」「こんなにも幸せになったか」とわかる。信仰は一生の問題だ。三年や五年ぐらいで、計ってはならない。


もし仮に、大御本尊の功徳が不平等であるならば、また、まじめに、真剣に、へんぴな地で信心しているものいが幸福になれないようなことが、もしか、かりにあったとしたならば、御本尊はあまりにも無慈悲である。大聖人の大慈悲は、不平等である。そんなことはけっしてない。ただ、あとはわれわれの信力、行力である。大功徳をうけられる純粋な信心、強盛なる信心を一生涯しきっていただいきたい。