「私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだよ。(中略)私と君とが、使命に生きるならば、きっと大聖人様の御遺命も達成する時が来るだろう。誰がなんと言おうと、強く、強く、一緒に前へ進むのだ!」(第24巻「厳護」の章)
半世紀を超える池田先生の大偉業に対し、ただただ感謝を申し上げるほかありません。
1977年(昭和52年)から学会本部の庶務室で、先生の戦いを間近で見てきました。
世界192カ国・地域に同志がいる。世界が相手である。いわば24時間365日。寝る間も惜しんで、先生は戦ってこられました。
悪しき弟子の反逆、邪宗門の狂乱、会長辞任……嵐が吹き荒れる中で、恩師の構想実現のために、先生はただお一人、命を削る思いで戦い続けられました。
同志を守るために日本中、世界中を駆け巡る先生に、私も随行させていただきました。国家指導者であれ、庶民であれ、行く先々で出会いの劇が生まれました。
93年の北南米指導。ブラジル・リオデジャネイロの国際空港での忘れられない光景があります。南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁との出会いです。
総裁は2時間も前から空港の貴賓室で池田先生の到着を待っておられた。高齢の総裁の体調を気遣う周囲に、総裁は「私は、94年間も池田会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、1時間や2時間は、なんでもありません」と。先生と出会われた時の総裁の感激が、居合わせた私にも伝わってきました。
世界には、会員であるなしを問わず、池田先生を慕い、先生の期待に応えようと奮闘している人がたくさんいます。
「在在諸仏土 常与師俱生」の法華経の一節の通りに、私たちは師と共に、この時を選んで、広宣流布のために生まれてきたのだと思えてなりません。
「君にしか果たせない使命がある!」。男子部の頃、まだ信心の浅かった私を、先輩がそう励ましてくれました。
地涌の使命を自覚することができたのは、先輩と共に小説『人間革命』を学んだからです。
恩師に仕える山本伸一の姿に、峻厳な師弟の在り方を教わりました。偉大な師匠を持てることの幸せを知りました。
“使命を見失うな”“魔に負けるな、悪に負けるな”“学会を、同志を守れ”“戦いは断じて勝て”“君よ立て、君よ戦え!”――どの巻を読んでも、どのページを開いても、池田先生の、弟子を思う慈愛の声が胸に響いてきます。生命が燃え上がります。池田門下の弟子として、報恩感謝の戦いを、永遠に実践しゆくことを誓います。
「御本仏・日蓮大聖人の御遺命は、広宣流布です。それを忘れたならば、もはや、日蓮仏法の意義はなくなってしまう」(第24巻「厳護」の章)
広宣流布は、断じて成し遂げなければならない。それができるのは、創価学会だけである。そのためには、青年を信じ、全力で育成するしかない――小説『新・人間革命』は、この池田先生の透徹した信念と責任感に貫かれています。
なかでも1976、77年(昭和51、52年)当時の歴史がつづられた第24巻「厳護」の章には、四半世紀後に到来する21世紀を見据えた、青年部の人材育成組織の整備と、「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への転換を目指した、日蓮仏法の思想的展開の歴史が描かれています。
特に、本山の輸送班に代わり、「創価班」として新出発した第1回創価班総会の中で先生は、「いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した“死せる宗教”に等しい」と断言され、広布大願に生き抜く人こそ大聖人の真の弟子であると訴えています。
そうした使命を現実社会で果たしゆく激闘の中、学会は第1次・第2次宗門事件を勝ち越え、今、人間主義の哲理を掲げる世界広布の基盤の上に、新たな建設の時代を迎えることができたのです。
私自身、青年部の責任者を務めていた1990年代、池田先生から幾度も直接、ご指導を賜り、訓練していただきました。人生の無上の誉れです。
男子部長を拝命した直後の90年4月、先生が出席された会合で、私が青年部の未曽有の結集を打ち出した時のこと。先生が青年部に語られたご指導は、今も鮮明によみがえってきます。
“人から言われてやるような戦いは、本当の戦いではない。自分たちで決めて、自分たちの責任で勝利を成し遂げる。それが本当の戦いではないか”
“私は師匠・戸田先生の前で、ひとたび口にしたことを、ただの一つもできなかったことはなかった”
広布の全責任を自覚して、全てを祈り、立案し、一切を切り開く――この池田門下の魂を胸に、広布の誓願を断じて果たす人生を全うする覚悟です。
「わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。(中略)伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない」(第24巻「母の詩」の章)
山本伸一の母・幸が戦時中、若い米兵が連行されたと聞いた時、真っ先に口をついて出たのは「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」との言葉でした。敵国への憎悪をあおり立てられる中、その慈愛の深さに涙があふれました。
先生は、この章でつづられたお母さまの姿を通し、女性が本然的に有する“生命を慈しむ心”、そして、女性の世紀の指標を示されたと思えてなりません。
人間愛に満ちた生命尊厳の時代を開くのは女性の力です。ゆえに、先生が描かれた女性の特質は一段と光を放っていくに違いありません。なかんずく、創価の女性が広布の使命を遺憾なく発揮していくことで、誰もが生き生きと輝く平和社会は、必ず築いていけると確信します。
私が学会本部職員にしていただき、創価国際友好会館に勤務していた頃、先生から「まっしぐらに戦わなかったら、宿命転換できないよ」と厳愛の指導を受けました。以来、どんな時もこの言葉を抱き締め、悩みや課題と向き合い前進してきました。そうした経験や、同志の皆さまと触れ合う中で実感するのは、学会活動こそ、人間革命、宿命転換の直道だということです。だからこそ、師と共に無限の福運の道を歩む創価の女性の連帯を、さらに強く、大きく広げていきたいと深く決意しています。
生涯の原点となった同会館で勤務した期間は第30巻「誓願」の章で描かれた第2次宗門事件と重なります。
宗門から破門通告書なるものが届いた翌日(1991年11月30日)、同会館で行われた「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」。この会合に急きょ池田先生が出席されました。
入場された先生が開口一番、「本日は、緊急に“祝賀の集い”があるというので」とユーモアを込めて語り掛けると、場内に笑顔が広がり、雰囲気は一変しました。同志を励まし、邪悪を砕く先生の師子吼は、今も耳朶を離れません。今、「誓願」の章を拝読し、あらためて、先生の真情を学び、命懸けで築き上げてこられた学会を、断じて守り抜くとの破邪顕正の祈りと誓いを強くしました。
先生は幾度も“婦人部がいれば広宣流布は盤石”と励ましてくださいます。これからも私たち婦人部は、先生・奥さまと共に“人間革命の劇”をつづりながら、一家に、地域・社会に、万代に光り輝く広宣流布の基盤を築くことを誓います。
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う。唱題によってこそ、魂の絆が織り成され、結ばれていくのだ」(第29巻「源流」の章)
「執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」――『新・人間革命』第1巻「はじめに」の一節を読み、全身に衝撃が走ったことを、今でも鮮明に覚えています。
執筆を開始された1993年、私は高校1年。当時は“完結の日”を想像すらできませんでした。
世界広布の指揮を執られる激闘の中で、一文字一文字に心血を注がれてきた池田先生に、ただただ感謝の思いでいっぱいです。
先生は「会えない全国の会員と対話する思いで書いている」と、執筆の心境を述べられています。そのお心に応えようと、青年部一人一人がそうであるように、私自身も毎朝、師匠と“対話”する思いで拝してきました。
高等部、学生部、男子部――。筆を執り続けられた25年という歳月が、そのまま自分自身の青年部時代と重なることに、意義を感じずにはいられません。『新・人間革命』と歩んだ青春の格闘の日々は、この上ない黄金の歴史です。
特に、なかなか折伏が決まらず悩んだ時、自身や家族の宿命との闘争の渦中……。“苦境を打開しよう”と真剣に祈り、戦っている時ほど、師が紡がれる言々句々が心に染みました。
2016年10月、「源流」の章のこの言葉が聖教新聞に掲載されました。男子部長を3年間務めた後、青年部長の任を受け、出発した直後のことです。
翌11月、ありがたくも、広宣流布大誓堂で池田先生とお会いする機会に恵まれました。苦楽を分かち合った全国の男子部の同志と共に師の励ましのおかげで成就した「3万世帯の弘教」の御礼を込めて、ごあいさつさせていただきました。
先生は私の顔をじっと見つめ、「ありがとう」「ありがとう」と何度も繰り返し言われました。それは、悪戦苦闘を突き抜けて、広布拡大の金字塔を打ち立てた、全国の青年部員に対する励ましの言葉であったと確信します。
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う」――“先生は全てをご存知なんだ!”。師の慈愛の深さに、感動が五体を貫きました。
『人間革命』『新・人間革命』をひもとくことは、“池田先生と対話すること”です。その原理は未来永遠に変わることはありません。
これからも、師弟共戦の「誓願」という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の“日記文書”を厳然とつづってまいります。