千葉は、本州の平地で最も早く日の出を迎える。日蓮仏法の大光もまた、千葉から昇った。
関東で“第1号”となる県歌が千葉に贈られたのは1978年(昭和53年)7月。当初は有志が原案を作った。しかし“ぜひ師匠の手作りの歌を”との声が寄せられたことを受け、池田先生は自ら筆を執った。
多忙の間隙を縫って千葉の歌を手掛けた真情を、先生はつづる。“日蓮大聖人が南無妙法蓮華経の第一声を放たれた地を広布の舞台にする千葉の友には、最も功徳を身に受け、幸せの実証を示してほしいと祈り念じつつ作りあげた”と。
曲名は「旭日遙かに」。その名を聞き、宗門の陰険な攻撃を耐え忍んでいた同志の胸中に、気高き使命が赤々と蘇ったのである。
発表の舞台となった房総圏の総会(同年7月19日)の模様を報じる聖教新聞には、曲に合わせて懸命に口ずさみ、少しでも早く覚えようとする参加者の姿が紹介されている。「この歌を胸を張り、声高らかに歌える自分に成長しなければ」との決意の声も。
本年4月、総千葉の創価青年大会の終幕を飾ったのも参加者1万人による「旭日遙かに」の合唱だった。御本仏ゆかりの天地に滔々と地涌の人材は続く。世代を超えて歌い継がれる「旭日遙かに」の歌声と共に。
◇ 関東広布の大城「埼玉文化会館」を訪れる同志が、誇りを持って見つめる碑がある。県歌「広布の旗」の歌碑である。78年(昭和53年)10月27日に聖教紙上で発表されて以来、喜びの春も苦闘の冬も、埼玉の同志が歌い続けてきた歌だ。
〽愛する埼玉 今ここに――冒頭の一節を口ずさむたび、同志の心には師匠への誓いが燃える。
池田先生は言う。「愛する埼玉は、わが青春の破邪顕正の言論戦の舞台」と。苦境に立たされた恩師と共に、打開策を求めて大宮方面へと向かったこともあった。恩師の名代として御書講義に通った川越地区も、埼玉だった。
師弟の魂が染みこむ天地である。“ここぞ”という時に真っ先に立ち上がるのが埼玉だ。戸田先生逝去後、“第3代会長の推戴を急げ!”と駆け付けたのは、埼玉の青年部であった。宗門の鉄鎖から解き放たれた“魂の独立”直後、最初の本部幹部会は埼玉で開催された。誉れ高き埼玉への思いを、池田先生は、「世界の友よ この地をば みつめ讃えよ」と歌詞に託した。
2010年、結びの一節に先生は「ああ埼玉の 勝利見む」と加筆した。「師に誓った広布の旗を断じて降ろさない」――大埼玉が世界に胸張る誇りである。
千葉の歌「旭日遙かに」誕生の経緯は小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章、埼玉県歌「広布の旗」発表の模様は第29巻「常楽」の章につづられている。
SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)では、それぞれの歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等のほか、「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
〈旭日遙かに〉
一、ああ ほのぼのと 夜は明けて
旭日遙かに 煌々と
安房の森にも 調べあり
天は晴れたり 我等を包みて
二、波濤は踊るも 太平の
世紀の大地に 走りたる
檜の舞台を 築かんと
ああスクラムは 千葉には燦たり
三、ああ忘れまじ 厳然と
元初の声を 弘めんと
誓いの花は この世にて
千葉に爛漫 広布の凱歌と
〈広布の旗〉
一、愛する埼玉 今ここに
地より涌きたる わが友は
勇み勇みて 手をつなぎ
広布の旗に 集いけり
二、清き埼玉 たくましく
世界の友よ この地をば
みつめ讃えよ ロワールと
文化の香り 幸と咲く
三、あの峰この河 埼玉は
恐るるものなし 師子の子は
友の心も 光りけり
ああ埼玉の 楽土見む
ああ埼玉の 勝利見む