「水辺に蛍が舞っています」と、近隣の友が教えてくれた。足を運ぶと黄緑色に明滅する光があちこちに▼幼いわが子の手を引いた母親が、ふと口ずさむ。〽ほー、ほー、ほーたる、来い。あっちの水は苦いぞ。こっちの水は甘いぞ……。蛍を呼び寄せる「わらべ歌」だが、神秘的な光に誘われ集まってきたのは、むしろ人間の方だ。夏の夕べに楽しい語らいが広がった▼御書には「沢辺にみゆる螢の光・あまつ空なる星かと誤り」(492ページ)と。日蓮大聖人も立正安国の御闘争のつかの間、夜空を彩る星のような蛍の光を愛でておられたに違いない▼なぜ人は蛍に魅了されるのか。成虫になってわずか1、2週間という短い一生を燃焼し切ろうとする“生命の炎”の発光を、そこに見るからだろう。人間もまた同じである。「臨終只今」の覚悟で、理想に向かって一瞬一瞬を燃えて生きる人の姿ほど神々しいものはない▼大聖人は「千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千・万草につきわたりて」(御書1435ページ)とも仰せだ。人間革命の壮大なドラマも、常に「真剣の一人」から始まる。広布への志という誓いの炎を、二人・三人・百人と点火してきた学会の同志の光跡が、それを証明している。(之)