法悟空 内田健一郎 画 (6414)
沖縄には、「命どぅ宝」(命こそ宝)という生命尊厳の精神、また、「いちゃりば兄弟」(行き会えば、兄弟)という、開かれた友情の気風がみなぎっている。
「身命の儀、どの宝物よりも大切に存じ保養いたすべく候」(注)とは、琉球の名指導者・蔡温の言葉である。
ところが、あの太平洋戦争では、凄惨な地上戦が展開され、多くの県民が犠牲となった。
山本伸一は、沖縄に思いを馳せるたびに、国土の宿命転換と立正安国の実現の必要性を痛感してきた。
彼が第三代会長就任から二カ月半後の、一九六〇年(昭和三十五年)七月十六日に沖縄を初訪問したのも、この日は、日蓮大聖人が「立正安国論」を提出された日であったからだ。沖縄の同志が、立正安国の先駆けとなる永遠の平和・繁栄の楽土建設へ、立ち上がってほしかったのである。
初の沖縄訪問の折、伸一は、南部戦跡も見て回った。同志たちから、悲惨な戦争体験も聞いた。胸が張り裂ける思いであった。そして、“沖縄を幸福島に! 広宣流布の勝利島に! そのために私は、沖縄の同志と共に戦っていこう!”と、深く、固く心に誓った。
仏法の法理に照らせば、最も不幸に泣いた人こそ、最も幸せになる権利がある。
六四年(同三十九年)十二月二日、彼が「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない……」との言葉で始まる、小説『人間革命』の筆を沖縄の地で起こしたのも、その決意の証であった。
「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」――同書のこのテーマこそ、恩師・戸田城聖が示した平和建設の原理である。
七七年(同五十二年)、沖縄研修道場が誕生する。ここは、かつて米軍のメースB基地であり、発射台のミサイルは、アジアに向けられていた。それならば、そこを、世界への平和の発信地にしていこうと伸一は思った。
小説『新・人間革命』の引用文献
注 高良倉吉著『御教条の世界―古典で考える沖縄歴史―』ひるぎ社