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生命は永遠なのだから。妙法を唱えていて、かりに不幸に見えることがあっても、それは、最大に幸福になる意義をはらんでいるのだから。

「一行一行、御書を拝しながら、『その通りです。まったく、その通りです』と深く拝読していくんだ」

大確信をもつには、まず小さな体験でよいから、功徳の体験をたくさん積んでいくことです。

信心の厚薄は、形では決まりません。 例えば、「唱題は何遍しなければならない」というような御文はありません。

折伏以外に信心はない。折伏が根幹です。折伏をしなくなっては、学会の生命はありません。

信じいているだけの「信者」ではいけない。 学んでいるだけの「学者」でもいけない。

「ありがとう」を言う時、聞く時、人は心のよろいを脱ぎ捨てる。人と人が深いところで通い合える。

生命力が「一」しかない人は、ちょっと何かあると、「二」か「三」の悩みでも慌てふためいてしまう。

「法を弘めようと悩む。人々を幸福にしようと悩む。広宣流布のために悩む。これほど素晴らしい仏の悩みはないではないか」

一瞬で変えることのできる「その一念」をどう変えるか? 結局、誰のせいでもない。全ては自分の責任。

頭では、広宣流布のためにと思っていても現実は、目の前にある悩みを受け止めるだけで精神的エネルギーを使い果たしていることがある。

信心したからといって、悩みの汚泥が無くなるわけではない。「悩みに負けない生命力」が出るということです。

人材育成といっても、その肝要はリーダー自身の率先の実践であり、自らの境涯革命への挑戦です。それがなければ、人材も見えてこないし、増えてこない。

「科学が進歩すればするほど、仏法の法理の正しさが証明される」とは、第2代会長・戸田先生の達観でありました。

広布が伸展すれば、三類の強敵が出来するのは必定です。ゆえに、こちらから斬り込み、根も葉もないデマの正体を暴き、

わが学会員は皆、霊山一会に共にいた誓願の同志であり、家族である。この久遠の会座は、生死を超えて、未来永遠にわたって続いていく。

私たちが拝んでいる御本尊様のお文字が、久遠の儀式だということをうかがってい ますが、どういうわけでしょうか。

「南無妙法蓮華経」とは、どのような意味があるのでしょうか。

南無妙法蓮華経といって、大宇宙生命の本体それ自体が、わが生命のなかへ働かなかったならば、ないも同じでしょう。

「題目をあげて、人々にどんどん仏法を語っていきなさい。将来必ず、すごい境涯になれる。生命力あふれる対話をするのだ」

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