本日の御書

本日の御書 日蓮が母存生しておはせしに仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候があながちにくやしく覚へて候へば一代聖教をかんがへて母の孝養を仕らんと存じ候(刑部左衛門尉女房御返事p1401 n2074)

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【御書本文】
日蓮が母存生しておはせしに仰せ候し事をもあまりにそむきまいらせて候しかば、今をくれまいらせて候があながちにくやしく覚へて候へば一代聖教をかんがへて母の孝養を仕らんと存じ候(刑部左衛門尉女房御返事p1401 n2074)

【通解】
日蓮の母(梅菊女)が生きておられるころ、言われたことに対し、私は、あまりにもそむいてしまいましたので、母に先立たれた今になって、強い後悔の思いにかられています。そこで、釈尊のすべての経典を探究し、(最もすぐれた法華経をもって)母に孝養しようと思っているのです。

【先生の指導から】
大聖人は、一生涯、法戦につぐ法戦であられた。心配するお母さんの言葉に、心ならずも従えなかったこともあられたであろう。
それは、仕方のないことではあったが、やはり申し訳ない気持ちでいっぱいである─こういうお気持ちであられたと拝察する。
御手紙には、こうした、ありのままの「人間」の心情を書いておられる。「人間」としての「母への思い」が脈打っている。そして、こうした人間性の延長線上にある信仰を教えてくださっているのである。
当たり前の人間性を離れて仏法はない。信仰はない。
信仰は、むしろこうした人間性の昇華なのである。
戸田先生は、よく「創価学会は”人間宗”でいくんだ。”人間宗”でいいんだ」と言われた。また「私は末法の凡夫だよ」と。
人間以上の人間はいない。
宗教が、ずる賢く、人間を人間以上のものに見せようとするとき、邪教になっていく。その最大の証拠が「日顕宗」である(賛同の拍手)。
「特別の人」などいない。いるはずがない。ゆえに、どこまでも「人間」として、「人間」を相手に、「人間」らしく生き抜くことが正しい。
そのための宗教である。そのための正道を教えたのが仏法である。(拍手)