
池田先生ご指導


生命にかかわるような重大問題、生命が絶対絶命になったような境遇に陥ったときに、ほんとうの題目を唱え、折伏をしたときに、宿命の転換がなされるのだといっておられた。

仏というのは内なる第六天の魔王を、南無妙法蓮華経という光明で克服している姿といえるかもしれない。 自分の持つ悪魔性に勝利している姿だ。

福徳に満ちた、何ものにも壊されない「絶対的な幸福」の境涯に、必ずなっていく。何があっても楽しい。名声や財宝がなくても満足である。一瞬、一瞬が、最高に充実している。

地に倒れた者は、地によって立つ以外にありません。誹謗した罪は、賛嘆の行為によって消すことです。

顔が変わるぐらい祈るんです。命の底から、本気になって題目をあげるんです。そうでないと何も残らない。魔が破れないで、いくらやっても空転である。と

ところが、ことばは短いけれども、これが胸のうちにジンときたときには、恐ろしくなってくる。それは、あらゆる邪宗邪義が、人生を不幸にし、人々の幸福を奪っているのだということなのです。

「幾多の生命流転の途上に、皆誤った生活が生命に染まって、一つのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)等のもので、

信仰に励んでいて起きてきた悩みは、過去に長い間縁してきた宗教の教義や本尊の誤りが、毒となって生命にしみこみ、生命を弱くゆがめて、不幸になるクセ(宿業)となってしまい、
