池田先生ご指導

「幾多の生命流転の途上に、皆誤った生活が生命に染まって、一つのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)等のもので、

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自分自身の幸福につながっていく戦いなのだ、自分自身の幸福を涌現させるための戦いなのだ、このようにして確信して、なんでも進んでやっていくのだ。それが全部、自分の福運になっていくのだ。


信心のうえで仏法の会得とか体得とかいうものは、生命対生命の交流でなされるのである。座談会はまさに、その生命発現の衆生と衆生の信心の感応の妙で盛り上がっていく。理論のみでもない。事務連絡的なものでもない。座談会がなぜ学会の根本であり、すべてといえるか、それは常楽我浄の座談会でこそ、感応妙の原理によって人間一人ひとりの生命の奥底にクサビが打たれ、そこから人間の変革と成長がもたらされるからだ。教育や指導、教授ではなしえないものが、座談会という仏道修行にはあり、それが社会第一線の活動の基調になる、といってよい。


「幾多の生命流転の途上に、皆誤った生活が生命に染まって、一つのクセをもつことになる。そのクセをつくるもとが、貪(むさぼり)、瞋(いかり)、癡(おろか)等のもので、これによって種々に染められた生命は、宇宙のリズムと調和しなくなって、生命力をしぼめていくのである。このしぼんだ生命は、宇宙の種々の事態に対応できなくて、生きること自体が苦しくなるので、すなわち、不幸な現象を生ずるのである」