本日の御書

本日の御書 法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄p16 n23)

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【御書本文】
法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず(唱法華題目抄p16 n23)

【通解】
法の正邪は法門の内容をもって判断すべきであり、利根や通力によるべきではない。

【先生の指導から】
われわれの信心の立場でも、交通事故、病苦、経済苦などさまざまな悩みをもつ人がいる。「祈りとして叶わざるなし」の御本尊の信心をしているのに、なぜか、と思う場合もあるにちがいない。
とうぜん御本仏と私どもの場合では、根本的次元の違いがある。しかし、ここで大事なことはすなわち、さまざまな不幸な現象にぶつかったときの、信心の強弱、信心の厚薄である。その信心の厚薄が、その後の人生の分岐点となることを知らねばならない。
たとえ不運な出来事があったとしても強盛な信心があるならば、その現証をば明快に自分自身で納得できるし、その納得したところにいっそう人生の希望と勇気がわいてくる。とともに、この現証を起点として、未来永遠にわたり、確かなる妙法の”幸福”の軌道へ進みゆくことができうるのである。
こうして、一生、三世にわたる生命の流れのうえにあって、宿命を大転換していく道こそ妙法であり、信心なのである。
それぞれのもちあわせた宿命というものは消せないものだ。また、その不幸の原因というものは、凡夫にはわからないものである。さらに、不幸が倍加されていくかどうかも、また、知りうるものではない。しかし、信心強盛ならば、そのすべての淵源を自己の一念で知ることができるし、宿命を転換させながら、その一念は幸福の太陽の昇がごとく輝きわたっていくのである。ここに信心の真髄があることを知らねばならない。
御書に「利根と通力とにはよるべからず」と仰せである。
人生も社会も、神がかり的な生き方や、手品師的な解決法はありえない。人生も一般社会の実相も、つねに地道に、正しく営々と積み重ね、築きあげていくものである。