小説「新・人間革命」

〈小説「新・人間革命」〉 雌伏 十七 2017年4月13日

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 法悟空 内田健一郎 画 (6045)

 蔵林龍臣は七十一歳であり、五人の子どもたちも、広宣流布の庭で活躍していた。この日も、アメリカに永住している四男以外は元気に集い、孫も含め、賑やかに山本伸一と峯子を迎えてくれた。
蔵林は、伸一を床の間の前に案内した。
「こちらにどうぞ!」
「それはいけません。人生の大先輩である蔵林さんが、お座りになってください」
一瞬、蔵林は、メガネの奥の目に困惑の色を浮かべた。しかし、伸一の強い勧めに、床の間を背にして座った。
部屋にある衝立の書も見事であった。黒光りした柱や意匠を凝らした欄間が、風格を感じさせた。
伸一が、家の歴史について尋ねると、「実は、わが家にはこんな言い伝えがありまして」と言いながら、伝承を語り始めた。
――昔、ある冬の夜のことである。庄屋の彦左衛門が、ため池に落ちて凍えるキツネを助け上げ、体を湯で拭いて乾かし、山へ帰した。キツネは、嬉しそうに「コン、コン」と鳴きながら消えていった。翌朝、家に二羽のキジが置いてあった。雪の上には、点々とキツネの足跡が続いていた。
「恩返しにやってきたというわけです」
伸一が、「人間も見習わなければいけませんね」と応えると、側にいた人たちは、真剣な顔で頷いた。忘恩の徒が暗躍し、学会員をいじめ、苦しめている時だけに、皆、恩に報いることの大切さを、強く感じていたのであろう。
戸田城聖の事業が破綻した時にも、それまで、さんざん戸田の世話になり、大恩を受けながら、手のひらを返すように、悪口し、恨み、憎んで、去っていった者もいた。
「忘恩は明瞭この上もない不正」(注=2面)とは、哲人ソクラテスの箴言である。
日蓮大聖人は、老狐や白亀が恩に報いた故事をあげ、「畜生すらかくのごとしいわうや人倫をや」(御書二九三ページ)と、人として報恩の誠に生きることの大切さを強調されている。報恩は人間の生き方の基である。

小説『新・人間革命』の引用文献
注 クセノフォーン著『ソークラテースの思い出』佐々木理訳、岩波書店