小説「新・人間革命」

〈小説「新・人間革命」〉 誓願 六

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法悟空 内田健一郎 画 (6336)

上野弘治の妻は、山本伸一への手紙に、こう記した。
「宿命と闘った主人は、子どものように純粋で美しい顔でした。主人は、私たちを納得させて亡くなりました。信心とはこういうものだ、宿命と戦うとはこういうものなんだ、と必死に生きて生き抜いて教えてくれました」
さらに、関西青年平和文化祭の出演者らで、決意の署名をすることになった時、皆から弘治の名も残したいとの希望があり、彼女が夫に代わって筆を執った。
「我が人生は広宣流布のみ‼ 上野弘治 名誉本部長」――夫の心をとどめたのだ。
その報告に伸一は、上野への追善の祈りを捧げるとともに、夫人が亡き夫の分まで広宣流布に生き抜き、幸福な人生を歩んでほしいと祈念し、題目を送った。

文化祭に出演したメンバーの多くは、訓練や団体行動が苦手な世代の若者たちである。しかも、仕事や学業もある。皆、挫けそうになる心との格闘であり、時間との戦いであった。そのなかで唱題に励み、信心を根本に自分への挑戦を続け、互いに“負けるな!”と励まし合ってきた。
そして、一人ひとりの人間革命のドラマが、無数の友情物語が生まれた。青年たちは文化祭を通して、困難に挑み戦う学会精神を学び、自身の生き方として体現していった。つまり、不可能の壁を打ち破る不撓不屈の“関西魂”が、ここに継承されていったのである。
“関西魂”は、どこから生まれたのか――。
“この大阪から、貧乏と病気を追放したい。一人も残らず幸福にしたい”というのが、戸田城聖の思いであった。
この念願を実現するために、戸田は、弟子の山本伸一を、名代として関西に派遣した。伸一は、師の心を体して広宣流布の指揮を執り、関西の地を走りに走った。そして、一九五六年(昭和三十一年)五月には、大阪支部で一カ月に一万一千百十一世帯という弘教を成し遂げ、民衆凱歌の序曲を轟かせた。