人間の営みのすべては、信じて行ずるということの反復、堆積にほかならない。なにものかを信じなければ、人間の行動ははじまらないからだ。ある特定の思想や宗教を奉じている人もあろう。あるいは、科学や、医学や、技術を万能とみる人もいるだろう。さらには、それぞれのつとめる会社や、所属する団体や国家の主義に殉ずる人もある。また、そこまでいかなくても、肉親や、親友や、あるいは自己の信念に、忠実に行きようとする人もあるだろう。たとえ、無神論者をうそぶいている人でも、無意識のうちに、なにものかを信じ行動しているはずだ。ところで、この世でもっとも悲しむべきことは、誤ったことを正しいと信ずることだ。たとえ、どんなに善意に満ちていたとしても、また、どれほど努力を尽くしたとしても、そんなことには関係ない。信じたものが、誤っていた場合には、人々は不幸を招かざるをえないからである。人間ばかりではない。それおを信じた集団も、社会も、国家も、まったく同様である。信仰とは、なにも遠くにあるものではない。特殊の人間のすることでもない。要は、信ずるということに対する、自覚の浅深によるだけである。人々は、それぞれ信じているものの本体が、あらゆる視点からみて、絶対に誤りのないものであるかどうかについて、おそろしく無関心である。正邪、善悪を不問に付して、いかにも平然といしている。ここに、救いがたい不幸の根源がある。