御本尊こそ末法の一切衆生の苦悩の重病を根本から治し救ってくださる唯一の大良薬であり、御本尊を信受して題目を唱えることが良薬を服することになり、その結果必ずどんな極重病であっても治すことができるのである。
ゆえに、毒だと知らずに飲んで苦しんでいる人々に、毒を捨てて大良薬を飲むよう勧める行為が折伏・弘教の実践なのである。したがって折伏にあたっては、ただ正法はすばらしいというだけであってはならない。破折屈服という本義のとおり、悪心を折って正法に伏せしめていくことが肝要である。悪心とは謗法に執着する心をいう。不幸の根源が邪宗邪義にあることを教えてその薬を飲んでいるからといっても苦悩の病気は治せないのである。
煩悩はいかにして菩提へと質的に転換されるのであろうか。日蓮大聖人は、煩悩を断ずるのでもなく、五欲を離れるのでもなく、煩悩という薪を焼いて菩提の慧火が現前化してくると仰せである。煩悩の薪を焼く火、法性の智火、が、宇宙生命の当体としての南無妙法蓮華経である。この宇宙生命にそなわる仏の智慧によって、煩悩が智慧の火に質的転換をとげ、昇華されていくのである。
御義口伝
「この講義、一書あれば、他の一切の仏教書はいらぬ」
あらゆる宗教、あらゆる哲学、あらゆる思想の最高峰であり、極理中の極理である。
祖のイハイを拝んだとて、先祖が仏になっていないことは白明の理だ。餓鬼界にいるか、地獄界にいるか、修羅界にいるか、六道のどの世界かにいる先祖だけを拝むなら、その先祖がその人を護るどころか、自分を救ってくれ、と言うにちがいない。ところが、こちらでは、仏法をもじっているから、救うどころの騒ぎではない。そこで、先祖の苦しい境涯とこちらの念が感応して、その人の生命力をなくしていくのである。ここに、その人の不幸の原因をつくっていくので、ほんとうに、かわいそうなのは、知らず、知らず幸福になると思って不幸におちいる信者である。