池田先生ご指導

その証拠として、その人の心中には大きな波乱が起こり、動揺を始める。それは、これまで、仏性が目覚めることもなく、ただ平穏に貪瞋癡ないし、第六天の魔王が支配していたところへ、初めて仏性が覚醒したのである。

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煩悩が不幸をもたらす元凶であることは疑いないが、それは同時に、生命の一種のエネルギーでもあるという事実に目をむけなければならないのである。煩悩と対決しようとすればするほど、生命が生きようとするエネルギーの噴出と対決しなければならなくなる。


十界において論ずれば、われらの一念は、地獄界より仏界までの十界を具している。信心がなければ、仏界の顕現はなく、むしろ、地獄、餓鬼、畜生の三悪道、それに修羅を加えた四悪趣の生命の働きのみ盛んに起こり、それに支配され、引きずられた当体となっていく。
しかして、信心により、仏界の顕現があるとき、これらの地獄界等は、決してなくなるのではなく、いままで不幸へと働いていたのが、かえって幸福へと働くようになる。奥底の一念が汚れ、力弱かったために、それらの働きに引きずられていたのが、今度は強き一念によって、それらを逆に引きずり、用いていくのである。
これらの境涯も、さらに一歩立ち入って、仏法の眼で見ていくならば、所詮、心の奥底の一念が、一切を決定していくという厳然たる事実を、われわれは知らなければならない。どんなに表面をつくろうと、偽善を装うと、心の奥底、一念のあらわれはどうすることもできないし、その厳しい事実の姿こそ、まさしく諸法実相であえう。
新羅三千の諸法もことごとく一念に具足しているのが、生命の実相であり、厳しき宇宙の根本法則である。
したがって、せんじつめていくならば、瞬間瞬間をどう生きていくかが最も重要な問題となってくる。


その証拠として、その人の心中には大きな波乱が起こり、動揺を始める。それは、これまで、仏性が目覚めることもなく、ただ平穏に貪瞋癡ないし、第六天の魔王が支配していたところへ、初めて仏性が覚醒したのである。そこで。これらの魔の働きが、仏性を押さえようとし、一方では仏性を助けようとする折伏者に対して、怨をなす。
したがって、折伏して、反対させることは、かえって、逆の方向へ向けさせたように見えることもあるが、事実は、このように、仏性を覚醒したがために、そのような姿を現ずるのであって、大きい前進といわなければならない。
しかも、こうして、いったん目覚めた仏性は、必ず次第に力を得て成長し、ついには、魔の力を打ち破って、その人のを妙法に帰依させずにはおかないのである。あたかも、専制帝国ロシアに革命の息吹が伝えられ、それが芽生えていったとき、弾圧すればするほど、革命の勢力が育っていって、ついに革命を成就したように--。