信心というものは、一生涯貫いていくものだ。その過程で、すっきりしなくなったり、調子が悪くなったり、スランプになったり、題目がどうしてもあがらなくなったりすることがある。しかし、悩みはどんな人にもある。
御本尊を信じて学会についていくことが大切だ。もがいてもがいて、もがきぬいて題目を唱えることだ。
そのたゆみなき信仰実践のなかに、悩みは霧が晴れるように解決していく。ちょうど山に登るときのように、途中は苦しいが、登りきればさっと霧が晴れて、視界がきくようなものである。
意欲がかけていたり、自分の仕事に感激がわかないのは、ぜんぶ仕事に引きずられている証拠だ。また忙しくなると、自分の仕事の焦点がぼやけてくる。
そういう場合も、仕事に引きずられているのだ。
自分のなすべきこと、とるべき責任、焦点というものをはっきり見きわめて戦っていれば、仕事をリードしているといえる。
現実の自分を離れて、福運があるわけではない。御本尊を拝んでいるから、学会活動をしているからといっても、人間として自身の人間革命がなければ、福運をあらわしていくことはできない。
信心しているからといって、もとより皆、欠点や短所がなくなるというのではない。だが、妙法によって浄化された場合には、同じ欠点や短所であっても、信心していない人とはまったく違ったあらわれ方をするものである。結局はぜんぶ、変毒為薬されて、それが、その人の持ち味となり、魅力となっていくことは、間違いない。