久遠実成の釈尊とは、つきとめていくと、実は私達自身、衆生自身のことなのです。しかし、この仏の姿も、究極するところ、宇宙根源の妙法の働きなのです。三世永遠の妙法が、一人の生命に蓮華のように花開き、苦悩の現実の中で清らかに気高く、慈悲と香り、知慧と輝くのが仏の真実の姿なのです。この妙法の活動が永遠なのです。
すなわち、妙法蓮華経こそ久遠実成の仏の実体であり、釈尊をはじめすべての仏は妙法の働きなのです。こうとらえるのが寿量文底の法門です永遠の生命を知って、すべての人が生命の奥底からの歓喜を起こすのです。この歓喜こそ、いかなる深い苦悩も吹き飛ばす妙法の力なのです。
御本尊の広大無辺の力を、小さな凡夫の境涯で推し量り、こんなもんだろうと決めつけたりするのは愚かです。慢心です。大信力を奮い起こして行ずれば、必ず「冥益」「顕益」として結果がでるのです。このことを「ああ、そのとおりだ」と実感した分だけ、自分自身の内なる境涯も広々と開けていくのです。
「宇宙自体が生命そのもの」「生命とは宇宙とともに本有常住の存在」「寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」「ちょうど、目を覚ましたときにに、昨日の心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。「出たというのではないのです。この水(卓上の茶碗)を宇宙とするのです。風が吹いてここに波ができるでしょう。波の立ったそれが、我々の生命なのです。また大宇宙の生命の動きの一種なのです。だから風がなくなれば、また元通りになってしまう」「溶けこんでいるというより、宇宙の生命それ自体なのです。それ自体が変化を起こしているのだ」生命を川の流れにたとえる人もいます。「常に流れ、変化し続けて、やがて海と一体となる」…なるほど、しかし、生命は、もっと奥の次元にあるものではないだろうか。戸田先生も「変化をしていく、流れているように感じられる大もとのものなんだよ」とおっしゃられている。「流れているものでもなければ、止まっているのでもない。虚空のごとし」と。それが生命の本質なのです。無限の「大宇宙」でもあり、同時に無数の生命体イコール「小宇宙」でもある。一つの実在。ダイナミックに変転し続けながら、しかも永遠常住である巨大な生命。この宇宙生命ともいうべき厳たる実在を「仏」ともいい、「妙法」ともいう。万人は、この尊貴なる実在の当体である。法華経は「諸法実相」と説く。「諸法」とは、すべての個々の生命事象である。その「実相」すなわち真実の相とは、宇宙生命そのものである。この不可思議の真理を、戸田先生は「仏とは生命なり」と表現されたのです。