池田先生ご指導

私どもにいえば、今世で学会員に出会って折伏された。信心をした。そう見えるかしれない。しかし、それは、一つの縁であって、

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理論や理屈によるというよりも、ほとんどの方は、身近な学会員の姿を見、真心に触れて入信してくる。
「学会の人は話し方がすがすがしい。思いやりが深い。誠実である」
「学会には、素晴らしい音楽、文化がある」
「学会の女子部は美しく、さわやかである。ぜひ息子と結婚させたい」
「職場でも、信心している人は、意欲的だし、どこか違う」
--こうした私達の日常の姿、平凡な振る舞いに心ひかれ、人々は仏法に興味を持ち、関心を深めていくのである。
所詮、仏法の真髄の一つは、振る舞いである。また難信難解の仏法を、いかに弘め、多くの人に教えていくか。その意味でも現実の行動が大切である。


組織の眼だけではなく、常に信心の眼で人を見なければならない。特に役職は高くなくとも、また役職はなくとも、本当にまじめな信心の方がおられる。その方々を尊び、心からたたえ、励まし、守っていく心が、自分自身の信心の証であることを忘れてはならない。常に弱者の味方たれ。傲慢とは、どこまでも戦い抜いていかなければならない。


仏法に巡りあう--それは偶然でなく。過去世からの福徳によるのであると。
私どもにいえば、今世で学会員に出会って折伏された。信心をした。そう見えるかしれない。しかし、それは、一つの縁であって、本当の因は、更に過去世にある。もともと大変な仏道修行をしてきた宿福深厚の人なのである。

  1. アバター画像 だるま より:

    学会の人ってすごいですね、いっぱい失礼なことしてしまったにもかかわらず、その人が変わろうとするなら「現当二世」の一言でこだわらず、応援してくださったりするんだから、普通なら見捨てるところを、もう、アダで返すようなことはせず、まっすぐ信じようと思います。生命力もらいました。ありがとうございました。