首都ニューデリーにあるローディー庭園を訪問し、居合わせた現地の子どもたちと交流(1979年2月6日)
旭日の勢いで世界広布をけん引するインド。ここでは、池田先生の1979年と92年の訪印を中心に、“精神の大国”を舞台につづられた、師弟のドラマを紹介する。
日蓮大聖人は「顕仏未来記」で仰せである。
「月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く」(御書508ページ)
正法・像法の時代には、仏法が月氏の国・インドから東へ伝わり、末法の時代には、日本からインドそして全世界へ広がっていくとの大宣言である。
そのインドを池田先生が初訪問したのは、会長就任から9カ月後の1961年1月下旬から2月上旬にかけてである。
それは、大聖人が示された「仏法西還」の道を開き、恩師・戸田先生が熱願した「東洋広布」の先陣を切る平和旅であった。
鳳雛よ羽ばたけ
61年の訪問の折、現地でインド人の会員に会うことはなかった。
2月4日に釈尊成道の地・ブッダガヤを訪れた池田先生は、「東洋広布」の文字を刻んだ石碑や御書の「三大秘法抄」などを埋納。いつの日か、幾万、幾十万の地涌の友が、この地に陸続と出現することを深く強く祈念した。
先生の祈りに呼び起こされるように、やがて一人また一人とメンバーが誕生。70年に最初の地区が結成され、その5年後には第1回のインド総会が開催される。
現在、インド創価学会(BSG)の名誉副議長を務めるアカーシ・オオウチさんが日本から海を渡ったのも、この頃である。75年9月、インド政府の奨学金を得て、現地の大学院の修士課程へ。後に博士号を取得した。
オオウチさんは、4歳で母と共に東京で入会。高等部時代、「大白蓮華」に掲載された先生の巻頭言「鳳雛よ未来に羽ばたけ」に感動し、暗記するほど読み込んだ。
「今こそ、世界平和、すなわち世界広布のため、全力を傾注して、前進せねばならぬ時代なのである。私は、今日まで、全魂を尽くして、諸君のために、道を切り拓いてきた。また、これからも、拓いていく決心である」
オオウチさんは、師の限りない期待にどう応えるか、高等部の仲間と熱く語り合った。そして、幼少期から魅力を感じていたインドの広布を、生涯の使命と定める。
「インドでは、日本から毎月1冊送られてくる英語版機関誌『セイキョウ・タイムズ』を皆で読み、信心を学んでいました。大事な指導をノートに書き写しては、各地のメンバー宅を訪ね、仏法の哲理や師弟の精神を伝えていきました」
こうして広布の胎動が始まったインドで、忘れ得ぬ師弟のドラマがつづられたのは、79年2月。先生とメンバーの絆が強く結ばれた訪問である。
現地で先生を迎えたオオウチさんは、インドに永住する決意を報告する。
その後、渡印から10年目の85年にインド国籍を取得。今日まで変わらぬ“鳳雛の誓い”を胸に、師弟の道に連なる人材育成に全力を注いでいる。
仲良く成長を
79年の訪印は、インド文化関係評議会(ICCR)の招へいで、2月6日からの11日間であった。
オオウチさんは振り返る。「滞在中、池田先生は『メンバーが安心して信心できるように、今回は“上空飛行”だよ』と言われました。インド社会に大きく信頼を広げてくださったのです」
その言葉通り、先生は、首相や外相などの政府要人をはじめ、デリー大学副総長ら教育者、“インドの良心”と敬愛されるJ・P・ナラヤン氏といった識者と相次ぎ会見。さらにネルー記念館、ナーランダ仏教遺跡などを視察した。
多忙な合間を縫い、2月7日の夜にはメンバーとの懇談会が開かれた。全土から駆け付けたのは約40人。中には片道4日かかる地域から来た人もいた。その多くが、師匠との初めての出会いだった。
先生は、一人一人を抱きかかえるように激励し、最後にこう呼び掛けた。
「皆さん方は、宿縁深い“兄弟”であり“姉妹”であるとの自覚で、インドの人々のために、どこまでも仲良く成長していってほしい」「ガンジス川の悠久の流れも一滴から始まります。と同じく、今はメンバーは少なくとも、自身がその一滴であるとの自覚で、洋々たる未来を信じて前進していきましょう」
当時、入会3年目だったアショーク・アローラさん(圏長)は、先生の振る舞いに驚いた。
「自ら私たちの中に入り、声を掛けられる姿に“これほど偉大な指導者がいたのか”と感動したのを覚えています。正直、信心のことはよく分かりませんでしたが、先生の人間性に触れ、“広布の大河の一滴に”と誓った私の原点です」
先生は、アローラさんの手を握ると「あなたのことは、よく知っていますよ」と語り掛けた。
「その先生の心が理解できるようになったのは、後になってからでした。懸命に学会活動に励み、著作やスピーチを読む中で、先生がどれほど世界中の人々のために心を砕き、一人一人に思いを寄せてくださっているかを知ったのです」
あの日集った友は、兄弟・姉妹のように仲良く、地域で社会で信仰勝利の実証を示してきた。アローラさん自身も、教育の分野で活躍。胸中の師と対話しながら、広布の最前線を奔走する。
明るく朗らかに
翌2月8日、池田先生はガンジーが荼毘に付されたラージ・ガートに献花し、ガンジー博物館を見学した。
役員として随行したハルディヤル・シャルマさん(名誉副議長)は述懐する。
「数多くの展示品がある中で、ガンジーが最期の日に身に着けていた“血痕の付いた布地”を、先生がじっとご覧になっていた様子が、とても印象に残っています」
かつてイギリスの植民地だったインド。47年8月には、ヒンズー教徒が多く暮らすインドと、ムスリムが大半を占めるパキスタンの「分離独立」に至る。
国民の融和を唱えていたガンジーは、その後も宗教の差異を超えた調和の道を模索していたが、翌48年1月、狂信的なヒンズー主義者の凶弾に倒れた。
多様な宗教や民族が混在する同国で、広宣流布を進めることは容易ではない。ゆえに先生は、折々に将来への指針を示していった。
ある時はBSGの発展の様子を聞き、“焦らなくていいんだ。もっとゆっくりやろう”と伝言を。メンバーは教学の研さん、少人数の座談会など、仏法への正しい理解を促す地道な取り組みを重ね、インド広布の確かな基盤を築いていった。
79年にシャルマさんが先生から贈られたモットーは「いかなる時でも 明るく朗らかな 指導者たれ」である。
「当時の私は、仕事に追われ、精神的に不安定な日々が続いていました。お酒やギャンブルに走り、妻や家族に迷惑ばかりかけていました。先生は別れ際に『ぜひ、奥さまと一緒に日本へいらしてください』との言葉を掛けてくださいました」
人生の指針を得たシャルマさんは、この翌年、夫婦で訪日し、先生と再会を果たす。その後、信心で一歩ずつ人間革命し、一家和楽の家庭を実現した。
後年、ニューデリー近郊に「創価菩提樹園」が開園した際には、初代園長として奮闘。明るく朗らかな振る舞いで同志に尽くす日々だ。
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“ガンジス川の一滴のごとく”――。79年の訪問を転機に、メンバーは広布の主体者の自覚を強めていった。
雄大な大河の流れを未来に描きながら、インド広布は着実に水かさを増していく。