文化祭を鑑賞し、同志の熱演を心からたたえる池田先生ご夫妻。先生は歴史的なステージを祝して、「美しき 衣装につつまれ 仏子らの 元初の舞か 福徳三世に」との和歌を詠み贈った(1992年2月8日、ニューデリーで)
インド・ニューデリーの町は小雨が乾いた大地を潤し、爽やかな空気に包まれていた。
午後2時20分過ぎ。インディラ・ガンジー国際空港の滑走路に、池田先生を乗せた飛行機が滑り込む。1992年2月6日。13年ぶりの訪印である。
空港では、招へい元であるインド文化関係評議会(ICCR)やガンジー記念館、インド文化国際アカデミー、国際文化開発協会(ICDO)の代表らが先生一行を歓迎した。
振り返れば、前回の訪問時(79年)、各地から集ったメンバーは約40人だった。それから13年、BSG(インド創価学会)は法人登録され、初の会館もオープンした。地涌の陣列は、約1500人となっていた。
当時を知るBSGのオオウチ名誉副議長は言う。
「活動では、教学研さんや小説『人間革命』などの著作の読了に力を注いできました。92年の訪問では、多くのメンバーが先生との出会いを果たし、それまで学んできた師弟の精神や学会指導が、一人一人の血肉となっていきました。あの時を境に、インド広布の勢いはさらに加速していきました」
平和の夜明け
中でも、最も多くの同志が先生との絆を結んだ行事が、2月8日に行われた第2回文化祭である。当日は、出演者や役員に加え、友人、家族など約3000人が集い、歴史的な祭典となった。
「悠久の大地に平和の夜明け」とのテーマを掲げた文化祭では、各地方の伝統舞踊や打楽器の演奏、日本語と英語によるコーラス、モダンダンス、伝統的な武術舞踊を基調にした組み体操など、多様性に富んだ躍動の舞台が繰り広げられた。
来賓席で鑑賞した池田先生は、演目が終わるたびに喝采を送る。最後にマイクを握り、メンバーをたたえた。
「13年ぶりに、ついに訪れることのできたインドで、このような絢爛たる文化祭を拝見させていただき、私の人生にとって、これほどの感動はない。美しい詩があり、深き哲学があった。悠遠な調べがあり、希望のハーモニーがあった。そして、お一人お一人の瞳が、限りなく輝いていた。満点の文化祭であった」
プラディープ・カンドゥーリーさん(壮年部長)は、デリーの壮年・男子部の一員として、力強いドラムのリズムに合わせて踊る「バングラ・ダンス」を披露した。
「先生は客席で体を揺らし、私たちと一緒に踊ってくださいました」
カンドゥーリーさんは88年、大学の友人に誘われ、BSGの座談会へ。仏法の哲理に魅了され、人生の目的を求めて入会した。
「先生と出会って、“信心の実証を示していこう”と固く決意しました。生活の中で、学会指導を実践していくうちに、先生への尊敬の念が日に日に強くなっていきました」
エンジニアとして働いていた電子部品を扱う会社では、“信頼第一”を心掛けた。会社の発展を祈り、誠実に仕事に励む中、若くして昇進を勝ち取り、重要な業務も任されるように。私生活では念願の結婚も果たし、娘はアメリカ創価大学を卒業。家族そろって広布にまい進する。
◇
スダ・クマールさん(圏婦人部長)も、あの日の文化祭を原点にしている一人。古典舞踊「カタック」の副責任者として奮闘した。
入会は88年。夫が事業の失敗を繰り返し、家族に手を上げることもあった。ただただ幸せになりたい一心で、信心を始めた。
前年の91年、文化祭に向けて準備を進めていた時だった。友達と遊んでいた息子が、誤って家の屋根から転落し、生死をさまよう大けがを負う。クマールさんは婦人部の先輩たちから激励を受け、「南無妙法蓮華経は師子吼の如し・いかなる病さはりをなすべきや」(御書1124ページ)との一節を抱き締め、一心不乱に回復を祈った。
その後、一命を取り留めた息子は、後遺症もなく退院。文化祭では出演者としてステージに立った。
さらには夫も、観客として会場に。家族3人が先生のもとに集えたことは、クマールさんにとって“勝利の瞬間”でもあった。「立ち上がって拍手を送ってくださる先生のお姿を見た時、“苦労を全部分かってくださっていたのだ”との感動が込み上げました」
92年の滞在中、先生はホテルのロビーでクマールさんたちに、朗らかに進んでくださいと、励ましの声を掛けている。そして「お体を大切に。ご家族にもよろしく」と。
それまで、“苦しい生活は全て夫が原因”と決め付けていたクマールさん。だが、師との出会いを機に、自らが一人立ち、一家和楽の実現とインド広布に尽くすことを決意。現在まで、経済苦や家庭不和、子どもの病も全て乗り越え、“幸福勝利の人生”を晴れ晴れと歩んでいる。
――先生は文化祭のスピーチで、御書の「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(1174ページ)の一節を拝し、メンバーに呼び掛けた。
「どうか、インドの皆さまは、さらに仏法の『人間主義』『文化主義』『平和主義』の旗を高く掲げ、お一人お一人が偉大なる“人格の王者”となっていただきたい」
師の指針は、良き市民として社会に貢献しゆく同志の心に深く強く刻まれた。
永遠の幸福の道
文化祭の翌日(2月9日)、インド広布31周年を記念するBSGの総会が開かれた。
席上、青年文化祭の開催や学生部・高等部・未来部の発足など、新たな展望が次々と示され、メンバーの瞳は決意と喜びに輝いた。
この日、民族衣装を身にまとった池田先生は、同志の奮闘を最大に称賛。スピーチの冒頭では、「妙法で結ばれた親子の縁は、生死を超えて永遠の希望につつまれる」と述べ、日蓮大聖人が子どもを亡くした門下に送った激励の一文を紹介し、こう言葉を継いだ。
「亡くなった息子さんの成仏は、絶対に間違いありません。そして、いつも、あなたと一緒ですよ。一緒に、『永遠の幸福の道』を歩んでいるのですよ。――大聖人の御慈愛が、染み入るように伝わってくる。
ともに幸福へ、ともに成仏へ――妙法の世界は何があっても、永遠に希望、永遠に繁栄の世界なのである」
会場にいたP・R・サティーシュさん(副壮年部長)は、先生の指導に胸を熱くさせながら聞き入っていた。
「総会では、表彰が行われ、一人の婦人に賞が贈られました。彼女に向かい、先生は立ち上がって胸に手を当てられ、深々と一礼されたのです。その方は、先生の訪問直前に、男子部のリーダーだった息子さんを事故で亡くされていました。私が最もお世話になった男子部の先輩でもあったのです」
サティーシュさんは大学1年だった86年に入会。信心に励み始めた頃、学会の師弟について、御本尊への確信について、一つ一つ丁寧に教えてくれたのが、その先輩だった。後輩たちから兄のように慕われ、誰よりも、先生のインド再訪を待ちわびていた人だった。
先輩はインド南部の町からニューデリーに向かう途中、交通事故に巻き込まれた。事故直後には、けがを負った運転手や同乗者を気遣い、病院に着くまで励まし続けた。その後、容体が急変し、息を引き取った。
先生は、広布の途上で逝いたこの男子部リーダーをたたえ、植樹を提案する。後日植えられたその木は「インド広宣流布青年英雄の木」として、インド文化会館の敷地に青々とした葉を広げている。
この92年の出会いを原点とし、亡き先輩の分も広布の最前線を走り続けるサティーシュさん。
仕事に失敗し、新規事業に挑戦した時も、男子部や壮年部のリーダーとして各地を駆け巡る時も、常に先生の指導に学びながら、自らの実践と照らし合わせてきた。
現在は副壮年部長、南インドの方面長として“先生の心”を語り広げる日々だ。
(①は12日付に掲載)