カナダSGIのバンクーバー総会(1993年10月1日)。会場に入った池田先生は、そのまま場内後方へ。
そこには車いすで参加していたクニコ・ウエノさん(地区副婦人部長)の姿があった。
81年のカナダ・トロント訪問で、池田先生が「必ずバンクーバーに行くよ」と約束した婦人である。
大阪出身のウエノさんは、15歳の時に家族とカナダへ。65年に友人の勧めで入会した。
バンクーバーに班が結成されたのは63年。当時はアメリカの組織に所属し、国境を越えてシアトルやロサンゼルスへ車を走らせた。
66年11月、ウエノさんは不慮の事故で脊髄を損傷。四肢麻痺が残ったが、奇跡的に一命を取り留めた感謝を胸に、車いすでバンクーバー広布を開拓してきたのである。
81年のカナダ訪問の折、先生はウエノさんを見掛けるたびに声を掛けていた。トロントの総会では、人垣の後ろにいたウエノさんに歩み寄り、「題目をあげきることだよ」と。
訪問最終日、先生は見送りに来たウエノさんに感謝を伝え、バンクーバーでの再会を約したのである。
“いつ先生が来られてもいいように”、メンバーの学会活動に拍車が掛かった。ウエノさんも専属運転手を入会に導いている。
友が待ち望んだ93年のバンクーバー総会。先生は「偉かったね。よく頑張ったね。皆の模範だね」と、ウエノさんをたたえた。
その光景に、普段は物静かなカナダの友から大歓声が上がる。拍手と喝采に包まれ、総会が始まった。
開会を告げたのは、有志のコーラス。懸命に努力を重ねてきた友の歌声をたたえ、池田先生は語った。
「仏法も人生も『勝負』である。勝つか負けるか、幸福になるか不幸になるかである。懸命な人は、必ず勝つ」「このことを、きょうは『バンクーバー宣言』の第1条としたいと思うが、どうだろうか」
参加者が大きな拍手で応えると、先生は例えやユーモアを交え、五つの指針を示した。
①懸命に生きる人生は美しい
②余裕ある人生は内実が豊か
③快活に生きる人生は強い
④仲良く生きる人生は明るい
⑤誇りに生きる人生は崇高
世界中から移民が集まるカナダにあって、バンクーバーはアジア系が多く住む共生都市として知られる。
個性や習慣、文化の差異を乗り越えるために、先生は、まず“同じ人間”として仲良き絆を結ぼうと訴えた。
婦人部本部長だったユリコ・スキランさん(カナダSGI総合婦人部長)は、「バンクーバー宣言は私たちの目標であり、喜びです。宣言を記したものを仏前に置き、いつも確認し合います」と語る。
東京・大田区に生まれ、先生と同じ小学校に通ったスキランさんは、高等部1期生として世界広布の人材に育とうと決意。香港の航空会社で客室乗務員として活躍した。
結婚後も仕事を継続し、カナダで旅行会社を経営する夫を支え、家事・育児、学会活動に奔走。79年11月に帰国した折、先生に近況を報告する機会が。
先生は懇切に耳を傾け、色紙に「堂々と 幸のために 信心の旅路」と記し、スキランさんに贈っている。
先生の励ましの心をわが心としながら、友の激励に駆けたスキランさん。幾多の病魔にも打ち勝ってきた。
93年のバンクーバー総会翌日には、10・2「世界平和の日」を記念するカナダ代表者会議が。先生は、この日から始まった創価学会による御本尊授与の意義を述べ、「人生には、理想がなければならない。そのなかで、広宣流布こそ、『最高の理想』である。この理想に生ききる人が、『最高の人生』となる」と語った。
世界広布の新たな地平が開かれる喜びが、友の心にあふれた。
93年のバンクーバー訪問で、池田先生はブリティッシュ・コロンビア大学のストラングウェー学長と会談。学長公邸は、同年4月に米露首脳会談が開かれた場所でもあった。
大学の構内には、この地で病没した新渡戸稲造博士を悼んだ記念庭園が。先生は新渡戸博士と牧口先生の交友に触れ、大学の使命等を展望している。
行事の間隙を縫うように、池田先生は同志との出会いを刻んだ。
当時、女子部本部長を務めていたクミ・ハーディンさん(婦人部本部長)。父親が末期の悪性リンパ腫で闘病中だった。かつて気性が荒かった父は、家族に心労を強いてきた。
父の回復を祈るべきだと頭では分かっていたが、心がついていかない。大切な時に祈れず、「自分は、なんて冷たい人間なんだろう」と思い悩んだ。
複雑な心境で諸行事の役員を務めていたハーディンさん。その心を察したかのように、先生は伝言を託した。
「お父さんのことは心配しなくていいよ。私がお題目をあげるから。お母さんを大切にしてください」
そして、次の句を贈ったのである。
幸せを
祈り祈りて
師弟かな
“父のために題目をあげたい”――ハーディンさんは素直にそう思えた。自宅に戻り、父とわだかまりなく楽しく会話し、父のことを思う存分に祈った。
翌々日、父の新たな生への旅立ちを、晴れ晴れと見送ることができた。
現在、ハーディンさんは医療通訳として活躍する。バンクーバーは英語を母国語としない住民が多い。患者、医師、看護師間の円滑なコミュニケーションに、通訳は不可欠だ。
SGIで磨いた同苦の心が、より良い治療結果につながっていると実感するハーディンさん。昨年、本年と友人に弘教も実らせた。目の前の一人をどこまでも大切にする、師の心を伝えている。
先生の滞在中、バンクーバーはインディアン・サマーと呼ばれる小春日和に包まれた。
夜には満月が輝き、カナダ代表者会議の席では、会場の明かりを消して、しばし、全員で窓から月を眺める一幕もあった。
窓のそばに立つ先生の隣で、ハリー・ミヤザキさん(カナダSGI主任副理事長)が、バンクーバーの町並みを紹介した。
「私たちの広布の舞台を先生にお伝えすることができ、胸がいっぱいになりました」
先生は、満月をかたどった丸い色紙に和歌を記し、ミヤザキさんとスキランさんに詠んでいる。
仏勅を
受けて来たりし
満月の
バンクーバーの
友のにぎわい
ミヤザキさんは東京・葛飾区の出身。74年にバンクーバーに渡ったが、当時は両手で数えられるほどのメンバーしかいなかった。
徐々にメンバーが増え、90年にバンクーバー文化会館が完成。
「当時の会合参加者は、大広間の半分にも満たない人数でした。先生の訪問と相前後して弘教が広がり、すぐに大広間がいっぱいになりました。今では数回に分けて会合を開催しています」
2010年のバンクーバー冬季五輪で会館前に駅が誕生。この地域貢献の城を拠点に、25年前、1本部だったバンクーバーは、8本部に発展している。
ミヤザキさんとスキランさんは、1993年のカナダ代表者会議で、先生と香峯子夫人が、小説『新・人間革命』の執筆について語り合っていたことが忘れられない。
この年の8月6日に執筆を開始し、11月18日の新聞連載開始に向かって、多忙を極める中で書きためていること。この約20日間の北米訪問にあっても、連載が常に頭を離れないこと――。
ミヤザキさんは「まさに命を注がれているようでした。これほどの思いで『新・人間革命』を執筆してくださっているのだと、襟を正す思いでした」と。
第1巻には60年のカナダ初訪問、第30巻には81年のカナダでの激励行が描かれた。
先生は一婦人の誓いから始まったカナダ広布の歩みを通し、記している。
「すべては一人から始まる。その一人が、人びとに妙法という幸福の法理を教え伝え、自分を凌ぐ師子へと育て上げ、人材の陣列を創っていく――これが地涌の義」と。
一人を信じ、励まし抜く地涌の共戦譜に、今日も新たなページが綴られている。
(④は7月21日付に掲載)