体験のない信心は観念(頭でわかっているだけ)になってしまいます。決めて祈って努力する。上り坂の信心をしていきましょう。
言われたからやっている、という受け身(惰性)の姿勢だと、信心が重荷になり、勤行や会合に出ることがいやで苦しくなり、ちっとも楽しくなくて、グチと文句ばかり出るようになってしまうのです。
「勤行・唱題を終わって生活の中に戻れば、生命は九界にもどるのであります。その意味での成仏とは、題目を唱えている刹那(瞬間)のことである。ただ、日々欠かさず勤行し、唱題を続けていくことによって、生命の奥底に仏界の生命がしっかり樹立されていくのです。(中略)わが生命の宮殿を開き、現在あるがままの自分を向上させ、可能性を最大限に発揮していく、これが信仰の究極の目的なのです」
御本尊に自分のことを祈るのは当たり前のことであり、同時にどれだけ他の人の幸せを祈ることができるかによって、その人の成長が決まってしまう。
「何としてもあの人を幸せにしてあげたいと心から思い、行動していく時に自分自身の偉大な変革が行われていくのである。他への思いやりがそのまま自身の宿命転換を可能にしていくのだ」
分からなくても価値のあるものを信じれば、生活にプラスがあり、逆に、間違ったものを信ずるとマイナスが出てきます。
ですから、私達の行動・生活においては、何かを信じて行動した結果がプラスであればその何かを信じるし、マイナスであれば信じない、ということのくり返しが行われていると言えます。
あたしは、幼い頃から、当たり前のように、家には、ご本尊様があり、育って来ました。
幼い頃、熱を出すと、ひきつけを、起こしていたそうです。
救急車が来ると、ご近所の方々はうちだと言っておられたそうです。お薬のんで、脳波撮って
夏になれば、病院でプ―ルに入れるか検査があり、入れない事もありました。
今、こうして生きているのも、母と亡くなった父のおかげだと思っています。
両親の信心のおかげで、障害もなくて普通に生活が出来ています。次は、あたしが、友人を幸せの道に案内する番です。
これからも、信心根本に頑張って行きたいと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。