われらが信心をなす目的は、永遠の生命のなかに、幸福を生きんがためである。本尊とは、不可思議境であって、この御本尊を、なにを知らなくても、だだ信じて南無妙法蓮華経と唱えるならば、必ずや不可思議境に到達する。
この妙境に到達するとき、永遠の幸福は保証され、慈悲の力がわき出でるのである。
また、われらが折伏を行ずるは、慈悲の行である。慈悲の行は、仏の仕事であり、真に尊いことである。
なんとなれば、自己が永遠の幸福をつかむと同時に他の貧窮(びんぐ)の衆生にも、その幸福を分け与えようとするのであるから、これ以上尊い仕事はない。
しかるに、この尊い仕事にたずさわりながら、折伏に応じないからといって、憎んだり、おどしては、あいならん。
慈悲に満ちみちた行動でありたいと思う。
罰論を説くにあったても、教えると言う態度ではなくてはならないのに、「私のいうことを聞かなくては罰が当たる」等と、さも自分が仏になったような・醜い至りである。
罰によってきたるところ、貧しきわれらの境遇を諄々(じゅんじゅん)と説き、尊極無上の御本尊を讃歎(さんたん)し、救わるるはこれだけであるということを説くべきである。
また折伏したのちに、恩着せがましく、自分をありがたがれという態度はよくない。
ただ、御本尊にご奉仕できたのを感謝するだけでいいのである。教化親などということばは、邪宗の用いることばであって、断じて使ってはならぬ。
またつぎに、折伏したものを、最初よく指導してやらぬはいけない。御本尊を持たせっぱなしなどということは、かわいそうなことだあるから、よくよく、その点は考えなければならない。
また指導するに当たって、さも、自分が偉くなったように思うのがあるが、それは、慢心を起こすもとであるから、気をつけなくてはならぬ。
なかには先生などとよばれて、さも偉そうな顔をしているものもいるが、もってのほかといわざるをえない。ことに、自分の指導しているものにたいして、
威張りちらしたり押さえつけたりすることは、絶対に禁物である。
ただこの世に生まれて、一言にても法の説けることを御本尊に感謝して、慎み深くあらねばならぬ。