池田先生ご指導

御書では随所に、苦難とは仏になるための試練であると示されている。ゆえに「まことの信心が今、試されているのだ」と立ち向かえば、断じて乗り越えられないわけがない。

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大聖人は、大難の中、青年門下の南条時光を鍛え育まれた。どんな圧迫があろうとも、「我が信心を試しているのか」(1540ページ、趣旨)と、うれしく思って、切り返し打ち返していくよう教えられている。
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御書では随所に、苦難とは仏になるための試練であると示されている。ゆえに「まことの信心が今、試されているのだ」と立ち向かえば、断じて乗り越えられないわけがない。そして、その戦いによって、境涯を開き、仏の命をより強く光らせていけるのだ。
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“自分は、長年、信心してきた。いろいろな活動も経験してきた。だから、もうこれでいいだろう”などと考えたならば、それは信心の惰性化です。幹部に、少しでもそんな思いがあれば、組織は停滞します。勇気をもって、その心を打ち破っていくなかにこそ、“凱歌の人生”があることを知ってください」
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戸田先生は、御本尊を拝んで大歓喜がわかなくては真の信仰とはいえない、とまで言われました。歓喜があれば功徳の大輪は、ますます大きくなる。しかし、こればかりはそれ、歓喜、歓喜などと言っているだけでは、歓喜はでてこない。勤行で足がしびれて、まだ終わらないか、ああ、歓喜、歓喜、それでは歓喜になりません、とも語られていた。勇んでなすのが信心です。真剣に戦っていればこそ心が弾む。仏法に悲壮感はありません。正義は楽しです。
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…では「生命力」という言葉のなかに、私たちはいかなる意味をこめているのでしょうか。一度は、考えておいてよい問題であるように思います。たしかに「生命力」という表現は信心している私たちの間では実感としてよくわかる言葉です。朝夕、御本尊と対座して、朗々と勤行・唱題するとき、私たちの色心の奥底から、仏界即南無妙法蓮華経の大生命が涌現する、その瞬間の歓喜と爽快さは信心している者のみが味わうことのできる醍醐味であるといってよいでしょう。まさに「南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり」と仰せの通りの状態を味わうことができます。
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…対話も、結論するに、御本尊への勤行・唱題に導くことにある。いくら明快な理論で論じても、また相手が納得したからといっても、それだけでは意味がない。あくまでもその目的は、その人が信心、勤行を深めていくための実践につながらなければならい。
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そういう行為をすれば諸天善神が逃げ去る、すなわち、内なる生命の尊い輝きが消え、知恵と創造のエネルギーが失われていくことは、当然です。生活を充実させ幸福へと志向させる因を、自らが断ち切るほどの愚かなこともないでしょう。諸天とは、生命のみずみずしく豊かな発動があり、依正不二で一切の依報が幸福へと作動してくることなのです。清らかな信心に立って、しっかりと五座三座の勤行を持続しましょう。
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ともあれ、信心の向上に、組織活動は不可欠である。一人ならば自由かもしれない。しかし、いかなる世界にあっても、それぞれの人生の真実の向上のためには、相互の錬磨が必要である。なかんずく、広布への信心のためには、絶対に組織活動が必要となっていく。しかし、そこに信仰の根本源泉たる勤行・唱題を忘れ、謙虚に自分を見つめることを忘れていくときに、真実の組織活動の価値は、信心の衰退とともに崩れ去っていくものだ。
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我が身を法華経のために使いゆく。つまり御本尊を信じ、勤行・唱題を実践し、学会活動に励んでいく。広布を支え、広布を進めていく。その誠実な信心と真剣さが仏力・法力と感応するのです。
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