浅い罪であるならば、こちらからゆるして功徳を得させるべきである。
重い過失であるならば信心を励まして、その重罪を消滅させるべきであるーと。
当然、謗法は厳禁である。
信心は、どこまでも自分自身で厳しく律していかねばならない。
また、正法を誹誘し、敵対する者には、文証、理証、現証のうえから堂々と破折していかねばならない。
しかし謗法を責めるという根本精神は、御書に繰り返し引かれている章安大師の「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」との文のごとく、「慈悲」の一点にあることを忘れてはならない。
ゆえに、信心をしている同志の謗法に対しては、程度の差はあろうが、むやみに責めたてたり、追いつめて、逆に信心から離れさせてしまうようなことは、絶対にあってはならない。
あくまでも、その人の信心を、より前進させてあげよう、深めさせてあげようと励まし、指導していく、忍耐強い慈悲の一念が大事なのである。
そうでなければ正義という名を借りた権威の乱用をまねくおそれがある。
その点によくよく留意していかねばならない。