いかに観念的に、仏法を理解しようとしても、仏法の神髄が、決して会得できるものではない。題目を唱え、逆境を切り開き、力強い人生を歩むとき、生活、生命の上に厳然と功徳が湧き、証得できるのである。そこに大御本尊の威力、大聖人の仏法の偉大さを、しみじみと自覚できるものである。遠く、釈迦時代に「智慧第一」といわれた舎利 すら「以信得入」といって、信をもって成仏した。信心、実践なき者に、仏法がわかろうはずがないのである。
大詰めまで来ながら“最後の一手”をおろそかにして、積み重ねた労苦を無にする愚を戒めている。
御書は「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」と“いよいよの信心”を教えておられる。
「一人立つ信念の人は宇宙も味方にしていく」一人決然と立ち上がることである。その瞬間に、諸天も呼応して立ち上がる。その人を守る。私は自分自身の人生でこの法則を証明してきた。
その人が本物かどうかは、一人になった時にわかる。一人立ってこそ本物である。大勢にまぎれて。泳いでいるだけでは、どんな立派な立場も幻のようなものである。