【御書本文】
只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり(一生成仏抄p384 n317)
【通解】
今の私達の一念が、無明におおわれて迷いの心である時は磨いていない鏡であり、これを磨けば必ず法性真如の明鏡となるのである。強く信心を起こして、日夜朝暮に怠ることなく磨いていきなさい。では、どの様にして磨くのか。ただ南無妙法蓮華経と唱える事、これが磨くという事である。
【先生の指導から】
この鏡の譬えは、まことに巧みな譬喩であると拝されます。すなわち、鏡が本来的に事物を映す力をもっていることは、衆生が本来、妙理を具していることを示します。
しかし、鏡は磨かなければ自然に曇ってしまう。大聖人御在世の当時の鏡は銅鏡が一般的ですから、特に曇りやすいと言えます。曇れば鏡としての用をなさない。だから絶えず磨かなければなりません。ゆえに、放置しておけば無明に覆われてしまう衆生の生命を鏡に譬えるのです。
そして、鏡本来の働きを取り戻すためには「磨く」という行為が不可欠です。また、鏡は、一度だけ磨けばそれでよいということもありません。磨き続けることが大事です。そして、磨けば常に明鏡として鏡の特性を発揮し続けることができます。
まさにこの譬喩が的確に物語っているように、私たちの唱題行は、無明の汚れを払い、法性の輝きを増していく生命錬磨の戦いなのです。
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