日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし(辦殿尼御前御書、御書1224ページ)
御書には、「餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随って別別なり」(1025ページ)と仰せである。
同じ恒河(=ガンジス川)の水でも、餓鬼道の者には火と見え、人間には水、天人には甘露と見える。見る者の果報(=過去の業因によってもたらされた現在の生命境涯)によって、全く見え方が異なってくる。
池田先生はこの御文を拝して語っている。
「同じ境遇でも、幸福を満喫する人がいる。また耐えがたい不幸を感じる人もいる。同じ国土にいても、すばらしき天地としてわが地域をこよなく愛する人もいれば、現在の住処を嫌い、他土ばかりに目を向ける人もいる。仏法は、その自身の境涯世界を高めながら、確かなる幸福と社会の繁栄を築いていくための“法”である」
仏法では「一念」の変革の重要性を説く。自身の一念が変われば、自身を取り巻く環境も変わり、世界をも変えていける。
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福岡大勝県婦人部長の錦戸協子さん(52)が、三男・甲人さん(21)=男子部員=を身ごもったことに気付いたのは1996年(平成8年)のことだった。
錦戸さんは学会2世として福岡県・粕屋町で生まれ育つ。未来部・女子部で活動に励み、91年に夫・広宣さん(52)=副先駆長=と結婚。ブロック担当員(当時)として充実した日々を送る中、第3子の妊娠が判明した。
だが、当初から不正出血が続くなど、錦戸さんは“違和感”を感じていたという。
妊娠8カ月目に入った97年3月、錦戸さんは緊急入院に。感染症を患い、緊急出産となる。幸い無事に出産したが、数日後、甲人さんに重度の障がいがあることが分かった。
「甲人は『脳室周囲白質軟化症』と診断されました。医師からは、『一生、寝たきりで首も据わるか分かりません』と告げられ、あまりのショックで、どうやって自宅に帰ったのか、全く覚えていません」
当時、長男は4歳、次男は2歳。自宅にたどり着き、同居する母・馬場崎小浪さん(83)=支部副婦人部長=の顔を見た瞬間、錦戸さんは泣き崩れたという。事の重大さを感じた母親は、その夜、錦戸さん夫妻を連れて学会の幹部に指導を受けた。
錦戸さんは振り返る。
「私はずっと泣き続けていて、甲人の病状は夫が説明しました。話を聞いていた壮年幹部の方は、しばらくして、私に優しく語り掛けました。『お母さん、病気は決して怖いことじゃないよ。怖いのは病魔に負けることなんだ。信心で、必ず病魔を打ち破ることができるから、大丈夫だよ』と。その確信の声にハッとし、ようやく現実を受け止めることができました」
錦戸さんはその日から、時間を見つけては御本尊の前に座り、真剣な唱題に挑戦した。
「甲人の病を知った地域の同志が、たくさん激励に駆け付けてくれました。一緒に唱題してくれたり、千羽鶴を折って持ってきてくれたり……。足の悪い多宝会の婦人が、手作りの『よもぎ餅』を持ってきてくれたこともありました。同志の真心に触れて、“自分は一人じゃない”“学会員で良かった”と、心の底から思いました」
甲人さんは1770グラムの低出生体重児だったこともあり、しばらく入院生活を送る。その後、退院したが15種類の薬の服用と、毎週の通院が義務づけられた。
甲人さんは体温調節がうまくいかず、常に微熱が続いた。また、呼吸器疾患のため、「3時間ごとのたんの吸引」が錦戸さんの日課となった。さらに肺高血圧症による心臓肥大から、甲人さんは心不全を起こし、新生児集中治療室(NICU)に運び込まれることが何度もあったという。
錦戸さんは語る。
「唱題を重ねていても、地獄のような苦しみを感じる時がありました。病に苦しむわが子を見た瞬間、現実に引き戻されるのです。『頑張らなきゃいけない。でも苦しい。つらい……』という感情が交差する毎日でした」
錦戸さんの唱題が100万遍に達したのは、甲人さんの誕生から2カ月が過ぎようとする頃だった。97年5月3日の朝、聖教新聞を手にした錦戸さんの目は、池田先生の和歌にくぎ付けとなった。
「そこには『創価学会母の日』を記念して、『五月晴れ/母の笑顔が/ある限り/天上天下は/楽土と変わらむ』との和歌が掲載されていました。
この直前に、池田先生に決意の手紙をつづっていたので、和歌は自分自身への返事のように思えました。和歌を何度も読み返し、“私も、何があっても負けない笑顔で、家族を包んでいける母親になろう!”“もっと自分が強くなろう!”と決意しました。それまでは、“なぜ、わが子が病気に”という恨みや愚痴の題目でした。でも、この日から“自分が変わろう”という決意の祈りになったのです」
甲人さんと二人三脚の日々を送る錦戸さんが、心の支えとしていた御文がある。
それは、「日蓮はその身に当たって、仏の大軍を起こし、大闘争を開始して二十余年になる。その間、一度も退く心はない」(御書1224ページ、通解)との一節だった。
あらゆる障魔に打ち勝つとの決意で、錦戸さんは学会活動にも全力で取り組んだ。広布の最前線で奮闘する中、3世帯の弘教も実らせる。やがて唱題が200万遍を超えて、300万遍に達した頃から、錦戸さんは“大事なのは環境ではなく、自分の心一つだ”と思うようになった。
甲人さんも、2人の兄の姿に触発されるようにたくましく育ち、座位を保てるようになってからは、車いすに乗って外出もできるようになった。
当初、甲人さんは「5歳の誕生日を迎えられるかどうかも分からない」と言われていた。だが、甲人さんは予想を覆して元気に成長し、服用していた薬も徐々に減っていく。
5歳になった頃には薬の服用は一切なくなり、体温調節もうまくいくように。通院も年1回でよくなった。
錦戸さんは、確かな信心の実証を胸に、さらに信心根本に前進した。
その後も、決して平たんな道筋ばかりではなかったが、朗らかに乗り越えてきた。甲人さんは昨年、晴れて成人式を迎えた。現在は地域の作業所に通いながら、はつらつとした日々を送っている。
錦戸さんは語る。
「甲人の病で苦しんでいた頃からは想像もできないほど、今は笑いの絶えない日々を送っています。これも池田先生をはじめ、多くの同志が支えてくださったからです。学会と共に、同志と共に進む中で、最高の人生を歩むことができる――この確信を同志に伝え、広布にまい進していきます!」
錦戸さんはある時期まで、甲人さんの“病の完治”や“障がいの克服”を祈っていたという。だが、幾多の試練を乗り越え、目標としていた、甲人さんの5歳の誕生日を迎えた頃から、錦戸さんの祈りに変化が表れた。
「“甲人は甲人らしく、ありのままの姿で成長してほしい”という気持ちが強くなっていきました。今も全介護であることに、変わりはありません。ただ、甲人と一緒に過ごす中で、“障がいの有無で、人生の幸・不幸は決まらない”と気付いたのです。何より、自分の心次第で、あらゆる環境を変えていけるという確信を持つことができました」
私たちは信心を実践していても、苦難や試練に直面することがある。だが、信心根本に自身の人間革命に挑み、困難に立ち向かっていくならば、必ずそこに意味を見いだし、乗り越えていくことができる――。その確信をつかんだ錦戸さんの言葉はひときわ力強く、“負けない笑顔”が輝いていた。(秀)