1 2 3 4 5 138

東の方へ向かって、諸天善神に対して挨拶するときに、それは、我が心の中にある諸天善神が、大宇宙に浮かぶのです。

御書には「強いて説き聞かせよ」とありますが、「強いて入信させよ」などとはどこにも書かれていません。

そのなかにあって精いっぱい努力し、そこに自己の生命を燃焼していく。その人生のなかに、 実は無上の幸福があることを、知っていただきたいのである。

いかなる高山があろうと広宣流布という高み以上の高峰はない。宇宙を貫く大法則を全世界へと弘めゆく大遠征の頂上であり、永遠の幸福という頂きであるからだ。

しかも今世で仏界を固めきれば、それが永遠に続くのです。

無始の昔からの積もり積もった罪障を、いまこの一生で消滅しようというのであるから、さまざまのものが出てくるのは当然である。

…対話も、結論するに、御本尊への勤行・唱題に導くことにある。

御本尊への祈りこそ、信心の根本である。それを人びとに教えるための組織であり、学会活動である。

いかに策を用い、力を尽くそうとも、妙法を唱えることをしなければ、生命の本源を侵してくる魔の力を撃退することはできませんし、題目が不足していれば、一切は空転してしまいます。

御本尊を受持する功徳は、凡智をもって測り知ることができない。 信心の深さ、強さ、不惜身命の実践によって、御本尊の功徳は、無量に涌現する。

他者にははっきりと認識できるのは、妙法の偉大さを語る私たちの行動や姿、生活態度を通してであります。

それと同じで、御本尊を信じて題目を唱えていくと、その人の生命の中に仏界のおもしができたようなもので、その人のもつ特質のうち、よい面が表に出て、

毎日三千遍の題目をあげていこう。その一日三千遍の題目があがると生命の回転が始まってくるのだ。 生命がきれいになってくるのだ。

相手のどこに魔が巣くっているのかを見抜いていくことが大切だ。何が、その人の成長を、幸福を妨げているのか、こちらも理解し、相手にもわからせてあげないといけない。

同じ御本尊を拝んでいても、こちらの信心が弱ければ込み上げてくる真の大歓喜は味わえない。信心次第で功徳が違ってくる。

歓喜があれば功徳の大輪は、ますます大きくなる。しかし、こればかりはそれ、歓喜、歓喜などと言っているだけでは、歓喜はでてこない。

他の人の仏界涌現を手伝っていくのが仏道修行です。

題目を聞いて、他の人まで「随喜」する。そのようなさわやかな唱題の声でありたい。

唱題できるという事がどれほど幸せなことだろう。無明の酔いから醒めるが如く、沈んでいる境涯もみるみる蘇ってハツラツとした命に変化する

「できる。できるに決まっている。どんな事があろうともやり遂げるのだ」 実現した姿がハッキリ確信できる所まで繰り返し繰り返し自分に言い聞かせる事だ。

1 2 3 4 5 138