


「宗門は金を持てば、学会を切るぞ! その時のために、万全の備えをしておくから」

信弱きは宿命に負ける。また生きゆく力が弱まるからである。 弱い心であり、生命であった場合は、自分の宿命に流されたり、怨嫉の生命にふり回されたりする。

それを観念論というのです。口に、意に読んだのを身に読んだと錯覚している場合が多いようです。

自分がわからないからこそ、無理を生じたり、思わぬ破滅を招いたりする。 信心こそ、自分を映し出す鏡を磨く作業である。

「ひょっとしたら、一生、折伏できないのでは」と本当に悩みながら題目をあげました。そんなある日、祈りながら、はたと気付きました。「自分は、友人の幸福を全然祈っていないな」と。

その御本尊に南無しゆくときに、御本尊の絶大な功力により、久遠の仏の生命を開かせていただき、いっさいの過去世からの因果の連鎖を、すべて超克、転換していけるわけである。

願いは、心の奥底のものが叶うのです。

一方、南無妙法蓮華経に一度でも縁し、つつまれた生命には、生々世々、成仏への大良薬が働きはじめるのである。
