


『先生、私はこんなに幸せになった』と、言われる時の嬉しさ、反対に、『まだ苦しい』と言われる時は、胸をえぐられるような気がします。

何千万年も修行してきた方便品の仏達よりも、私達は御本尊を信じて南無妙法蓮華経と、たった一言唱えるのみで、仏になる修行ができてしまうのであります

人生の総決算に問われるのは蔵の財でも身の財でもない。いかなる「心の財」を積んできたかである。

事実、南無妙法蓮華経がどういう意味なのか。方便品・寿量品に書かれていることは何なのかということがわかるためには、相当、仏教哲学を掘りさげて学ばなければなりません。

「今こうして折伏を行じ、御本尊を信じまいらせて題目を唱えているならば、いつ御本尊を拝んでも、日蓮大聖人の生命と我々の生命とがピタッとふれ合うのであります」

ゆえに、妙法を受持したわれわれは、社会事象に左右されることなく、根本的大道のこの妙法の道だけは大確信をもって進んでいくべきである。 この南無妙法蓮華経という大法則には、だれ人たりともかなうわけはないのである。

御本尊も同じだ。こちらの信力・行力の強弱によって、功徳に違いがあるのだよ。

功徳の宝は、すでに厳然と存在しているのである。 これからは、その宝庫を開きゆく信心、祈り、行動、境涯であっていただきたい。
