事実、南無妙法蓮華経がどういう意味なのか。方便品・寿量品に書かれていることは何なのかということがわかるためには、相当、仏教哲学を掘りさげて学ばなければなりません。

意味がわからなくてもいいのかという点について。事実、南無妙法蓮華経がどういう意味なのか。方便品・寿量品に書かれていることは何なのかということがわかるためには、相当、仏教哲学を掘りさげて学ばなければなりません。しかし、信仰は、まだ、それがわからなくても、まず実践することから始まるのです。 それはどうしてかといいますと、私達の理性の範囲では、まだ理解できなくても、生命それ自体とか、無意識の深層の世界では、これを十分に受けとめ、それに反応する働きがあるのです。これは、例えば、赤ん坊が何もわからなくても、乳をのむことができるのと同じです。頭では、題目の意味も、経文の意味も理解できなくても、それを読み、唱えることによって、生命の深い奥では、その意味や意義がわかったのと同じように、これを吸収し、それに応じた発動が行われていくのです。

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コメント

  1. アバター 練馬の地区部長 より:

     今月の座談会拝読御書の勉強をしています。阿仏房御書。
     御文の字面の上では理解できたように思うのですが、大聖人がどうしてここまで似たような言葉を重ねられているのかまでの理解がおぼつきません。
     特に最後の「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり、法華経の題目・宝塔なり 宝塔又南無妙法蓮華経なり」。最初の「妙法蓮華経より外に宝塔なきなり」で終わっても意味は伝わる気がします。あるいはその次の「法華経の題目・宝塔なり」で終わっても良いような気がするのですが、大聖人はあえて最後に返すように「宝塔又南無妙法蓮華経なり」と重ねられているところに、大事な意味があるような気がするのですが、よく分かりません。
     我見で考えるに、拝読範囲の中ほどの「南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身”宝塔”にして我が身又多宝如来なり」の”宝塔”に最後の一文にならって「南無妙法蓮華経」を代入すると「南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身”南無妙法蓮華経”にして」となり、御本尊に境地冥合して唱題することで己心の仏性が開かれることを強調されているのかな、とも感じましたが、大聖人のお心はどこにあるのか・・・?
     どなたか、ご教示頂けませんでしょうか?