
池田先生ご指導


自分がわからないからこそ、無理を生じたり、思わぬ破滅を招いたりする。 信心こそ、自分を映し出す鏡を磨く作業である。

その御本尊に南無しゆくときに、御本尊の絶大な功力により、久遠の仏の生命を開かせていただき、いっさいの過去世からの因果の連鎖を、すべて超克、転換していけるわけである。

願いは、心の奥底のものが叶うのです。

一方、南無妙法蓮華経に一度でも縁し、つつまれた生命には、生々世々、成仏への大良薬が働きはじめるのである。

ゆえに折伏は、相手ではなく、自分です。信心する・しないは相手の都合、信心を語る・語らないは自分の都合ーーこの“自分の都合”が、すなわち「勇気」であります。

白馬がパッパッと駆けているような朗々とした勤行・唱題をしていきましょう。御本尊にビンビンと響き、感応していく勤行・唱題に、無限の功徳があるのです。

宇宙も、動植物も、万物が一念三千の当体なのである。その三千の諸相を示しながら、それぞれの使命に生きているわけだ。 そのなかで最高の境涯、究極の目的は、仏界を根源として生きていくことである。

功徳を受けたときは感謝の心で燃え立つが、いつしかその感謝も忘れ去ってしまう場合が多い。 御本尊への限りなき感謝の信心があれば、功徳はさらにまさるものである。
