【御書本文】
仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり(四条金吾殿御返事p1169)
【通解】
仏法というのは道理をもととしています。道理というものは主君の持つ権力にも必ず勝てるのです。
【先生の指導から】
仏法を持たもった私どもは、最も道理をわきまえた、最高に良識豊かな人でなければならない。
自分の家の近隣はもちろん、大勢の人が集う会館の地域の方々にはとくに、こまやかな配慮と礼儀が絶対に必要である。出会った時の、さわやかなあいさつ。ご迷惑をかけたり不安を与えたりしない細心の心配り。それらをていねいに積み重ねてこそ、仏法への共感の思いも広げていくことができる。また真実の意味で、会館が″地域の幸の城″になることができる。
どこまでも人間同士の信頼感が根本である。独善的であってはならない。「信仰している人たちは、さすがである」と、人々が安心し、称賛しゆくところに、事実の上で、地域の広布の流れもできあがっていくことを忘れないでいただきたい。
反対に、お会いしても、会釈の一つもせず、夜遅くまで大きな声をたてたり、早朝や深夜の電話の音、出入りの音、車やバイクの騒音などで、いやな思いを与えていたのでは、もはや社会規範に反するといわざるをえない。また路上でのおしゃべりや、タバコの吸いガラなども注意しなければならない。
たとえ、どんな立派なことを言い、また価値ある運動をしたとしても、むしろ人々は、そうした身近な振る舞いのほうで判断するものである。これは日本においても、各国においても同様である。これまで、ずいぶんそうした面で、広布の前進が遅れた場合があった。
仏法の「経」の字には、広くいえば、一切衆生の生命の表現、すなわち私どもの一切の言動という意義が含まれている。誰もが自分の「言葉づかい」「振る舞い」によって、それぞれの経を読んでいるのである。
南無妙法蓮華経は最高の「経」である。ゆえに無上の経を持った私どもの言語・行動も最高のものへと洗練され、磨かれていかねばならない。