人間と人間、生命と生命はすべて互いに連鎖している。
そのつながりに生命と社会の実相がある。
ゆえに人々への化他の働きかけなくして、自分一人だけ、御本尊を拝していても、大聖人の極理の御指南には徹していないことになる。
水も動かなければ腐ってしまう。
信心も動かなければ成長はない。
勇んで庶民のなかに入り、指導・激励し、弘教していく。
そこには大きな苦労と人一倍の悩みもある。
そのなかで唱題し、繰り返しその労苦に挑んでいく。
その自行化他の反復と持続の行動のなかに、その人自身が崩れざる常楽の幸福境涯の当体へと建設されていくのである。